編集長日記 (2002年1月〜12月)
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12月23日(月)
「IT革命」に惑わされずに、コンピュータ文化を理解するための基本図書(understanding computer culture)のコーナーを、本当に久しぶりに更新した。今回追加した書評は、今年の春から、日経BP社のサイトで毎週1冊書評してきた、インターネットや情報技術関係の本の一部。あまりできの良くない原稿や、とりあえげてもしかたのない本をのぞいて、13冊ほどを選んでみた。
このコーナーは、いまから5年くらいまえに最初のプロトタイプをつくった。そのときは友人たちにも頼んで原稿を転載させてもらったり、無理を言って書き下ろしてもらった。いまリストアップされている本は、5年くらい前に選んだものと、今年選んだものからなっており、その中間が抜けている。とはいえ、5年まえにはまださかんに出版されていたコンピュータ文化関連の本は、おおくが絶版状態になったままだったり、そうでなくても書店の店頭からは消えている。1995年と言えばITバブルがそろそろ始まる時期で、今年はそのバブルがほとんど消え終わった時期といえるかもしれない。この二つの場所から、あらためて「コンピュータがもたらした新しい文化」の意味を考えてみたい。
そのいちばんいいきっかけになるのは、ローレンス・レッシグの本だろう。前著『CODE』につづき、2作目の『コモンズ』も山形浩生による読みやすい訳とていねいな解説で日本に紹介されたのはありがたいことだ。インターネットにかんして偉そうなことを言った人はたくさんいたが、彼のように訳業やネット上の活動(プロジェクト杉田玄白など)において、終始言行一致をつらぬいた人は少ない。ネットバブルのときはネットを賛美し、バブルがはじけるとしっぽを巻いた連中とは違うのだ。
いちどは僕たちの「コモンズ(共有地)」となったインターネットという場を、これから僕たちはどのようなものであってほしいと考え、そのためにどうアクションを起こしていったらいいのか。そういうことを、いまもう一度考えるために、このコーナーを生き返らせることにした。この本をリストに追加してほしい、というリクエストや、書評の投稿も歓迎します。
12月4日(水)
『〈民主〉と〈愛国〉』読了。読後の第一印象は、とてもよくできた教科書だということだ。個人的には、第三部で吉本隆明、江藤淳、鶴見俊輔、小田実を論じているところが興味深かった。いまでは批評界、文学界、思想界の最長老とも目すべき彼らも、論壇・文壇への登場時は当然、以前の世代に対する根元的な批判者としての「もっとも若い世代」だった。後続世代が前の世代に対する反逆者として登場するのは当然のダイナミズムだけど、そうした起源が見失われるにしたがって、彼らの言説の受け取られ方も固定していく。そして、かつての「もっとも若い世代」が最長老となったとき、言説の固定化が完成してしまう。そういうメカニズムに対する一貫した批判の目が、この本の骨頂の一つだし、よき教科書であることを保証している部分だ。
でも、本書全体をとおし、かなり好意的に書かれている人物もいる。丸山真男、鶴見俊輔、竹内好、そして江藤淳だ。逆に、比較的に批判のトーンの高いのが、吉本隆明だろうか。このあたりは、遠近法の是正のために強弱をつけたところもあるだろうが、ある程度著者の「文学」に対する好みも出ている気がする。もっとも、「戦争」という共通体験のみが、さまざまな戦後思想を生み出した源泉であるとしたら、そうした共通体験のない純粋戦後世代にとって、たとえ〈 〉つきであれ、どのような〈愛国〉や〈民主〉があり得るのか、という問題が最後に残る。僕は高度成長や石油ショック、バブル経済とその崩壊といった、生活に密着した経済のダイナミズムが、戦争に変わる共通体験として、戦後世代が国を考えるときの共通体験になりうると思う。そうした生活レベルの実感にくわえ、文学その他の表現や、それらを載せるメディアそのものまでが、ある特徴をもった「思想」を生み出してきたのだと思う。そして、そのことをもっとも明敏に語った思想家が、吉本隆明だったことは間違いない。
その点で、この本における吉本隆明に対する評価の相対的な低さは、吉本の戦争に対する感受性やいわゆる〈戦後知識人〉への粋すぎた悪罵といった面を割り引いても、やや説得力に欠ける気がした。政治よりは経済、作品よりはメディアそれ自体に着目するのは、それこそポストモダンな考え方だ。ただ、このポストモダンという言葉も、〈日本人〉や〈民主〉〈愛国〉と同様、〈 〉でくくって考えるべき時期がきていると思う。ぜひ小熊氏には、1970年から2000年までの時代を考察の対象にした4作目を期待したい。これまでの3作は、それまでの長い長い助走だと思う。たとえばこんなタイトルはどうだろうか。『〈ポストモダン〉と〈グローバリズム〉〜ベトナム戦争から湾岸戦争までの日本人の国家意識と精神史』。自分で書いてみて気づいたが、やはり鍵になるのは「戦争」なのだろうか。まだ書かれていないのに、なんだかとても次の彼の本が読みたくなってきた。
細かく論じるのは別稿に譲るが、最後に一つ。この本の表紙はとてもいい。いろんな読みとり方のできる、いい写真をみつけたと思う。これまでの2作よりずっと、多くの読者を得るのではないか。そして、この本から過去2作を遡行して読んだ方が、小熊氏の考える日本近代史のパースペクティブの是正への思いは伝わるような気がする。
11月27日(水)
『〈民主〉と〈愛国〉』を読み始める。あいかわらずこのキーワードで検索してこのページに来る人が多いのは、それだけこの本が人々の関心を呼んでいるからだろう。期待にたがわず面白いし、過去二冊より読みやすく、ストレートに議論の核心に入っていける。いま、5章の[左翼の「民族」、保守の「個人」]まで読み終わったところなのだが、あまりに面白いため、本当は邪道なのだが、さきまわりして最終章[結論]を読んでしまった。この本はミステリではなくて論文なのだから、[結論]を先に読んでから検証部分を読んでもかまわないはず、いやむしろ、そのほうが明確に、小熊英二がこの本で論証しようとしていることがわかるはず、と思ったのだ。
細かく論じるのはすべてを読み終えてからにしようと思うが、途中まで読んでいてまず感じるのは、この本がとても気持ちのいい本だということだ。これまでの本と同様、ぼくらの思考を(ということはつまり、生活を)不自由にしている「国家」や「公」や「個人主義」といった概念に対する先入観や固定観念を、一度きれいに洗い流してくれる。抽象概念は人を鼓舞することもあるけれど、手あかにまみれるにつれ、人を怠惰にし、思考を止める障害にもなる。それは概念そのものではなく、それを受け取る側の意識の問題である、ということが明確に述べられてるのがいい。そして、この本は過去の先入観にとらわれないだけでなく、あらたな「先入観」を読者に植え付けることのないよう、注意深く書かれている。そこが気持ちの良さの理由だろう。
もう一つの特徴は、この本がたくまずして、「戦後知識人」と呼ばれる人たちの知的格闘の系譜をたどる本にもなっていることだ。そして、彼らのおりなす知的星座の遠近法を、より正確なものに戻してくれているところだ。このあたりは、(ぼくと同世代である)小熊氏の、団塊世代が歪めてしまった戦後史の歴史的視座の修正に向けた信念が感じられる。かつて岩波書店の編集者だった小熊氏が、なぜ岩波をやめて研究者になったのかは、個人的な事情もあるのだろうが、この本はそうした疑問へのひとつの回答にもなっていると思った。
「戦後民主主義」や「進歩派知識人」を笑うことが、全共闘世代以降の一つの流行のアチチュード(態度)だった。1970年にはなにがしかの意味があったであろうそうした姿勢も、その理由が忘れ去られたまま放置されれば退廃を生む。「戦後」「民主」という言葉の起源とその概念の推移を問うことが重要なのは、現在の日本を覆う知的退廃の原因の一つが、1970年に生まれたひとつのアチチュードが、再検証されないまま現在まで放置されていることだからだ。その責を負うべきは団塊世代の批評家だけでなく、かれらより若い、いま30〜40代の物書きたちの知的怠慢(といって悪ければ、文章の切れ味の悪さ)にもあるだろう。かれらの文章の切れ味の悪さは、まさしく知的なアチチュードの不鮮明さによるものなのだから、それを怠慢といっても、さしつかえないような気がする。
というわけで、この本はいまの時代にとてもアクチュアルな「効果」を発揮する、スリリングな本だ。いま同時に、ちくま文庫から出ている福田和也編の「江藤淳コレクション」も読んでいるのだが、示唆を得ることが多い。1960年前後と2002年という二つの視座から、1970年前後に起こった転回点を見据えることによって、いわゆる「戦後」なる時代の検証を、これまでとは異なる視座からクールに行うこと。それはたぶん、1970年にはまだ生まれていなかった今の若い世代にとっても、とても意味のあることだと思う。
11月24日(日)
bk1の安原顕さんの「編集長日記」を検索する人が多い理由がわかった。ご自身の病状を、安原さんがウェブのこの連載であからさまにしているのだ。「ボールペンの先でワープロを叩きながら」原稿を書いているとのことだが、それだけでも壮絶さが伝わる。少しでも長く書き続けて欲しい。この人の毒舌がなくなってしまったら、本をめぐる言葉がまた、いっそう寂しくなる。
小熊英二と『民主と愛国』での検索ヒットも相変わらず多い。こうなると気になるので、さっそく読み始めてみよう。読了したら、せっかくなのでこのサイトで書評を載せるつもり。気長にお待ちください。
11月16日(土)
アクセスログをとりはじめてから一月ほどたったのでご報告を。なんというか、こんなにのんびり更新しているのに、毎日50人くらいの人が見に来てくれている。もっとも、ウェブサイトでユニークヒット数が日に50なんていうのは論外で、ミニコミどころか閑散もいいところだ。まあ、実態としてはそんなものだということをご報告まで。この程度では雑誌どころか喫茶店も書店もつぶれてしまうが、ウェブというメディアはこれだけノンビリやってても、継続さえしていれば読みに来てくれる人がいる、ということがよくわかった。なので、とくに更新頻度を上げずに、この日記もいままでどおり月1、2度を目標に書いていきます。書くことがないのに、毎日、日記をつけるほうがずっと、意味のないことだと思うので。
ところで、ここ数日、googleなどのサーチエンジンから、「bk1 編集長日記」というキーワードをたどって、このサイトに来られる方がずいぶん多い。「bk1」の「編集長日記」といえば安原顕さんだが、なにか話題になるようなことが書かれているのだろうか。ためしにgoogleの検索で「編集長日記」とだけ入れると、このページが一番上にきていた。それもこれも、のろい更新にもかかわらずリンクを張ってくれている他のサイトの方々のおかげだと思う。もっとも、日記と称しておいて「月記」「隔月記」いや、これでは「季記」ではないか、とお怒りの方もいる思うので、ほかのサイトで書いている「日記風」のコラムも紹介します。まずJ文学関係に関するメモは、個人サイトのBBS、sora tobu BBS のほうで、ここよりはやや頻繁に書いています。もちろん本業の「本とコンピュータ」のウェブもよろしく。ここでも、業務日誌的な日録を時々書いています。
それから、このところ小熊英二さんの名前でヒットしてやってくる人も多い。大著『〈民主〉と〈愛国〉』がでたからだと思う。気になるのでさっそく買い求めた。とても面白そうだが、読むのはたぶん年末年始になりそう。アクセスログを取り始めていちばん知りたかったのは、このサイトに来る人が、いったいどういうきっかけでやってくるのかということだった。もちろんブックマークしてくれている人が多いのだが、検索エンジンからのヒットもずいぶん多い。なので、検索エンジンからのヒットで多かった「キーワード」を集計して、ときどき発表することにした(興味のある方はこちらをどうぞ)。もっとも、これはコンテンツのだぶっている(書評についてはミラーサイト的な)僕の個人サイトとの共同集計になっているのであしからずご了承を。
そうそう、ずっと報告していませんでしたが、「婦人公論」の書評はまだ続いています。毎回書目を報告するのはやめにしますが、最近面白かったのは、河出書房新社から出た『エドワード・ゴーリーの世界』。ゴーリー本は何冊も買っていたのに、どうもとっつきにくくて読まずにいたのが、この本を読んでまったく考えが変わった。入門書やファンブックはかくあるべし。勢い余ってアマゾンで、ゴーリー作品のアンロソジーをまとめて買ってしまったくらい。これも年末年始のお休みにのんびり読むつもりなり。中央公論社から町田康の新作がでるそうなので、ゲラをお預かりして、「婦人公論」で書評することにした。これもお楽しみに。
11月13日(水)
アマゾン・ジャパンがついにユーズドブック(古書)の販売にのりだした。これは出版界にかなりの激震を与える気がする。ぼくは、出版界が再販制度を残すことを決断したことによって拡大したのが、中古市場と図書館利用の拡大だと、とりあえずは考えている。そして、中古市場は新古書店の登場で一般ユーザーを確実にとりこんだ。その層が、一気にアマゾンを利用するようになったら、本の二重価格制度が完全にできあがる。
もっとも、「アマゾンを利用する」かどうかが興味深いのは、買い手の側ではない。買う方は、疑問の余地なくユーズドブックを選ぶだろう。問題は売り手のほうだ。はたして、オンライン古書市場は、読者の需要をまかなうだけの「売り手」を新たに生むのか、それとも、一度買った本を売るという行為は、まだまだ根付かないのか。即断できないが、オークションサイトの隆盛ぶりをみるにつけ、本を売ることに抵抗があるとはまったく思えない。それより、これまで新古書店にさえ本を売らなかった層が、一気に「売り手」として浮上してくる可能性のほうが強い。それに、オンライン書店というけれど、アマゾンに入るといまは、「この本を売る」という選択肢がすでに表示される。よかれあしかれ、このことが意味するのは、出版社と読者が対等な立場で張り合う、真の意味での「マーケットプレイス=市場」ができたということなのだ。
今日見たら、村上春樹の「海辺のカフカ」は、上巻がすでに1冊、売りに出されていた。定価1600円に対して、価格は1000円。いま新古書店で売っても上値で400円〜500円くらいだろうから、こちらで売ったほうがずっと得だ。これが文庫、新書などにまで拡大していったら、出版社にとってオンライン書店の存在は、むしろデメリットのほうが大きくなるかもしれない。しかし、ユーザーから見た場合は、諸手をあげて歓迎できるサービスだといえる。そうなると、再販制度をなにがなんでも守らなくてはならない理由が、出版界からも消えていくのではないだろうか。そういう意味で、アマゾンのこのサービスがどこまで利用者を獲得していくのかは、今後の出版界をみていくうえで、ひとつの鍵になりそうだ。
10月13日(日)
三ヶ月ぶりの更新です。「本とコンピュータ」のサイトのリニューアルや、その他もろもろで間が空きました。自分のサイト、本コのサイト、そしてこの『書評パンチ!』と、いま三つのウェブサイトの運営をしているのだが、『書評パンチ!』もほとんど個人サイトになってしまったし、本コのサイトも実態はほとんどワンマンである。ウェブの編集を、うまく共同作業にしていくのはとても難しい。金銭的な見返りも、評判というインセンティブも少ないとなると、個人的なモチベーションしか、ないのかもしれない。
たとえば、紙の雑誌というのは、編集スタッフ同士が仲が悪くても、喧嘩しながら(あるいは喧嘩さえしないという状態でも)、なんとか作れてしまうものだ。最終的にはブツに落ちるから、達成感がそれぞれに残る。編集長以外は、極端なことをいえば、自分のつくったページだけ満足できれば、それでよかったりする(もっとも、そういう雑誌は長期的にはダメになっていくのだろうが)。たぶん、ウェブサイトはその究極の形なのだろう。それぞれの個人が、勝手にページを企画する。それを統御する上位の編集単位としての「編集人」とか「発行人」は必要なくて、あとはウェブ全体が、あるいは各種のリンク集や検索エンジンが、雑誌でいうところの「目次」を構成するのではないだろうか。
ところで、三ヶ月ぶりに日記を更新したのには、もう一つの理由もある。『書評パンチ!』はひつじ書房さんの『書評ホームページ』のなかに間借りしているのだが、アクセスログの解析などはとくにお願いしてこなかった。個人サイトの方で最近、CGIBOYという無料アクセスログのサービスを導入してみたところ、とても便利なので、こちらにも入れてみたのだ。これまで、ページビューがどのくらいなのか、気にもしていなかったが、しばらく続けてみて、この日記でもご報告してみたい。
7月13日(土)
ブックレット、というものに昔から興味がある。つまり小冊子。ペーパーバックでも中綴じでも背・カバー付きでもいいのだが、キビキビと機能する本、という佇まいに惹かれるのだ。現代企画室から出たジャック・セムラン「娘と話す非暴力ってなに?」とレジス・ドブレ「娘と話す国家のしくみってなに?」の2冊は、どちらも100ページほどのブックレットで、定価は1000円。ちょっと細長くて、フランスの本みたい(原著の版元はスィユ社。たぶん、同じ判型なのでしょう)。これまでにも、1000円程度のワンテーマ本とか1時間文庫(とかなんとか)いう、いわば「読み切り本」というのはあったけれど、短時間で消費するための本ではなく、繰り返し立ち返る基本について、コンパクトにまとめられている本に、僕は何より惹かれるのだと思う。
そういえば、むかし友人と、「5ミリ本」という話をしたことがある。岩波文庫のなかで、厚さが5ミリに満たない本をリストアップして、それを片端から読もう、という話だ。「歴史上の偉大な書物は、いつだって文庫で5ミリ以内の厚さだった」などというスローガンまでつくったような気がする。もちろん、大著だけがもちうるパワーというものもある。最近出た酒井直樹の本はまだ読んでないけど、小熊英二のこれまでの仕事などはそのいい例だろう。でも、そういう本を読もうと思わせるための、踏切版のような本は、やはり必要じゃないか。『共産党宣言』を読んだから、みんな『資本論』を苦労して読んだのであって、その逆じゃないだろう。現代企画室の本はそれぞれ、前者を高橋源一郎、後者を小熊英二が解説しており、どちらもとてもいい。娘(子ども)に語る、という方式は、欧米ではどうやらかなり伝統的なもののようだ。さがしてみると似たタイトルの本がいろいろある。代表的なのはリオタールの『子供に語るポストモダン』だろう。でも、なぜ息子ではなく、娘なのか? きっと、西欧では息子は自動的に再生産されてきたんじゃないか。
息子ではなく、娘に、つまり、語りにくいことを、語りにくい相手=前提を共有しない相手にどうしたらわかりやすく、コンパクトに伝えられるか。これは大きな問題だ。でも、だからこそ、「非暴力(ということは、当然、暴力についても語ることになる)」「国家(ということは、当然、暴力の独占についても語ることになる)」について、「娘(若い女性)」に通じる言葉で話す(一方的に語るのではなく、対話的に)というのは、いまこそ出されるべき・読まれるべき本だという気がした。ぼくの『ポスト・ムラカミ〜』は、1984年くらいからずっとかんがえてきた、自分なりの「暴力論」のひとつのまとめでもあると思っているので、心強い援軍を得た気持ちだ。
こぼれ話をいくつか。『ポスト・ムラカミ〜』を脱稿してから、岩波新書の中村光夫の『日本の現代小説』を買って読み比べた。書いているときはまったく意識していなかったけれど、中村光夫と自分の本が(不遜かもしれないけど)、文体を含め、意外とよく似ているのに驚く。もっとも『日本の現代小説』は現在絶版で、ぼくは「スーパー源氏」でさがして、長崎の古本屋さんから400円で買った。今でも売られている『日本の近代小説』は坪内逍遙から始まり、芥川の死で終わっているが、『〜現代小説』は関東大震災と新感覚派の登場から始まり、戦争を経て、大江健三郎・石原慎太郎の登場で終わる(刊行は1968年)。読んで面白いのはぜったいに『〜現代小説』なのに、こちらが絶版なのは、「近代」でも「現在」でもない「現代」という歴史的な区画(それはようするに、国家主義の時代ということだ)について語る言葉が、現在において失われているということじゃないか。「現代美術」「現代音楽」と足並みをそろえた「現代文学」は1968年で息を止めた。そのあとが、「ポスト・ムラカミ」の時代である「現代」ならぬ「現在」になるのだ、ということの正しさを、僕はこの本を読んで改めて思った。中村のこの本のあとには、素人向けのまともな日本文学の通史がまったくなかったのだな、ということも。
もうひとつ。斉藤美奈子の『文壇アイドル論』はひどい。買わなければよかった。どのくらいひどいか興味がある人は、立ち読みしてみてください。もう少し期待していたのだけれど、この人はまったく小説が読めない人なのだと言うことが、はっきりわかってしまった。同じ岩波から出ている「21世紀・現代の創造」のキレがいまひとつ良くないのは、この人たちの限界だろう。17日は芥川賞の発表。吉田修一か、星野智幸か。石原は星野を嫌いそうだから、こんどこそ吉田修一のような気がする。賞を取ることで、読者が触れるなら、芥川賞だろうが何賞だろうが、とっておいたほうがいいに決まってる。買い損ねたうちに「文学界」は次号が出てしまった。図書館に借りにいこう。
7月3日(水)
先月末から書店に並び始めた『ポスト・ムラカミの日本文学』は、おかげさまでいくつかの店ではとても好意的に棚に並べてもらっている。「渋谷系」という言葉が帯にあるからか、東京・渋谷のパルコブックセンターやブックファースト、表参道の青山ブックセンターでは、非常にいい場所に置かれている。編集者として本を出したことはなんどもあるが、単独の著書ははじめてなので、売れ行きがとても気になる。ある程度売れないと、こちらも困るが、本を出してくれた版元も困るからだ。なので、機会があるごとに書店の店頭をまわって、残り部数をチェックしてしまう。
驚いたのが、紀伊國屋書店のハイブリッドウェブでは、前日営業終了時点での本の置き場が、そうとう細かいところまでわかることだ。また、ジュンク堂の池袋店の場合は、残り部数までがわかる(本日現在3部。そろそろ売り切れ)。つまり、売行きの確認が、ある程度ウェブを使ってもできるということだ。こんな風に本の売れ行きを気にしたことがなかったので、新しい発見だった。
今回の本は、「大学一年生くらいの読者にむけた、ブックガイド」のつもりで書いた。ただ、たんなるカタログにしたくなかったので、歴史軸を立てて、いくつかの仮説(十分に吟味されていないけれど、成り立つであろう作業仮説のようなもの)を提示してみた。あとは、個々のテーマを、ぼくなり、専門の研究者なりが掘り下げていけばいいのだと思う。
本が出てから気づいたのだけれど、いま岩波書店から出ている「21世紀文学の創造」シリーズの第8巻で、坪内祐三がいい文章を書いている。彼は「1979年のバニシング・ポイント」という原稿で、日本文学における批評の消失点が、村上春樹のデビューしたこの年にあったのだという。僕は文芸批評の歴史には詳しくない(だから上記の本では苦労した)が、「ポスト・ムラカミ」と僕が名付けた一連の小説は、まさに批評が不在となった79年以降の時代にふさわしい、それ自体が批評であるような「メタ・フィクション」として登場したのだと思う。坪内さんとは、意外と小説に対する考え方で、近いところがあるのかもしれないと気づいた。そう思って、また「文学を探せ」を読み返し始めているところだ。
6月19日(水)
まずはお知らせから。朝日出版社から、書き下ろしの『ポスト・ムラカミの日本文学』という本を出しました。「編集長の独断テーマ書評」で紹介してきたような、村上春樹・村上龍以降の日本のポップ文学の総ざらえをした本です。明るい緑色の表紙に、紫色の帯という装丁で、洋書のペーパーバックみたいな感じ。青山ブックセンターなどではすでに配本されているようなので、よかったら手にとってください。1200円です。また、この本は「カルチャー・スタディーズ」と題したシリーズの一巻で、同時配本は大久保賢一さんの日本映画本です。こちらもお楽しみに。
橋本治の『浮上せよと活字は言う』も、平凡社ライブラリーから無事刊行された。ながらくほぼ絶版状態だったので、この機会にぜひどうぞ(ついでに、『天使のウインク』も、「続・浮上せよと活字は言う」というタイトルに改めて、同じライブラリーから出して欲しい、とリクエストしておこう)。ところで、この本の「出版を論ず」という章は、まるまる角川文庫について論じている。「文庫の大量販売」「メディアミックス」により日本の出版界を大きく変えてしまった、1970年代後半の角川書店の大改革(自社の改革であったと同時に出版会全体のでもあった)は、新しい読者を生み出す契機になっただけでなく、のちの時代の新しい著者を生み出す契機でもあった。とくに、現在のミステリ界をはじめとするエンタテインメント小説の書き手は、角川文庫の恩恵をたっぷり受けた世代だ。そのあたりの分析は、『ポスト・ムラカミ〜』でやっているのだけれど、問題は「そのレベルの本から始めるしかなかった新しい読者層」の行く末だ。
ぼく自身、角川文庫から本を読み始めたクチなので、事態を客観的にみることができないのだが、この世代はやはり、本の読み方が「快楽としての読書」に偏っている気がしている。もちろん、人文書や純文学も読むのだけれど、それも広い意味での快楽であって、自己鍛錬、教養主義という意識はまったくない。貪欲にいろんな本を濫読するのだけれど、そうした読み方の基本は角川文庫で身につけたスタイルだと思う。その善し悪しはともかく、どうやらこういう「消費的」な読み方は、この世代以降に特有のものみたいだ。読書論をきちんとしなくては、というのが最近の『本とコンピュータ」編集室での雰囲気なのだが、そもそも読書スタイルが世代によってずいぶん違う。その違いを超えて、共通の土台としての「読書」を再定義できれば、なにか見えてくるかもしれない。
最後に、「婦人公論」の書評の予定を。草間弥生自伝『無限の網』の次は、島田雅彦『フランシスコ・X』、藤本和子『リチャード・ブローティガン』と続きます。ブローティガンの本はとてもいい。書評を待たずにお読みになることを薦めます。
5月22日(水)
仕事としてやる書評が増えて、個人的に本を読む時間が減ってしまった。こうなったら、仕事として読む本を「個人的に」読むしかないだろう、と思っている。ところで、「個人的」という言葉、日本語では日常でもよくつかわれるけれど、けっこう突き詰めて考えると奥深い。なぜ人は、ある種の行為を「個人的」な行為とわざわざ言うのだろう。個人的でない行為なんて、ほんとうはないはず(とくに読書やその他の知的営みにおいては)だが、なぜ、「個人的には〜と思う」などという言い回しをしてしまうのか。日本では個人的(かつ、総合性をもった)知性なんてまだ存在しない、という橋本治の『江戸にフランス革命を!』を、何度目かの再読をしながらそんなことを考える。
ところで、「書評パンチ」の合評でもとりあげた橋本治の『浮上せよと活字は言う』は、平凡社ライブラリーから増補版として出ることが決まったそう。この日記で以前、中央公論がなぜ文庫化しないのか憤った経緯(2000年の日記を参照)があるので、とても嬉しい。なおかつ、増補にあたっては、『季刊・本とコンピュータ』に書いてもらった文章(「産業となった出版に未来を発見してもしょうがない」)などが新たにくわわると聞いてうれしさが増した。橋本さんとは、かつて「シティロード」でサブカルチャー批判のインタビューをさせてもらい、「ワイアード」では大友良英との対談をしていただいたが、依頼原稿はこれがはじめてで、担当した記事が単行本におさまるのもはじめて。大いに影響をうけた著者の本に、ー編でも自分の担当記事がおさまることは冥利に尽きる。
書物とはなんだろう、という考えが、いまはコンピュータや電子化の問題とはまったく切り離されて、いまぼくのなかでふくらんでいる。「個人的な読書」という、やや矛盾した言葉を冒頭で書いたのも、そのせいだ。古本屋で、晶文社が非売品として刊行した故・小野二郎の追悼文集『大きな顔』という本をみつけ、パラパラ読んでいる。出版という仕事が、ここまで熱かった時代があるということを知るだけでも、刺激になる。そう、読書だけでなく、出版もまた、きわめて個人的な営みなのだ。
5月18日(土)
吉田修一が山本周五郎賞を受賞した。とてもうれしい。デビュー作以来からのファンだが、今回の『パレード』は一皮むけた会心作だっただけに、多くの読者を獲得できると思う。三島賞かな、と思っていたけど、山本賞というのは考えてみるとふさわしいように思う。もう純文学も大衆文学もさかいめがなくて、「ポップ文学」だけがあるとぼくは思っている。
村上龍と村上春樹以降の、そうした「ポップ文学」の系譜を若い読者向けに書き下ろした「ポストムラカミの日本文学」という本が朝日出版社から今月末に出るので、ぜひ読んでください。この本で書いたのは、文芸評論でもなければ文学史でもなくて、ポップカルチャーとしての80年代以降の小説の系譜を構造化する試みのようなこと。いまの若手の作家が書いている小説が、同時代を生きてきた読者としての僕からはどんなふうに見えたのかを、正直に書いたつもり。短期間の書き下ろしだったために、足りないところもつたないところもあるけれど、こんなふうに「ブンガク」について書いた本はこれまでになかった、という編集さんの言葉に励まされてなんとか形になった。月末には店頭に並ぶとのことなので、どうぞよろしく。
この本を書かせてもらえたきっかけは、97年から書評を連載させてもらっていた「Composite」誌の菅付雅信さんからの提案。同時代の小説をずっと読み続けてきたのも、隔月のこの連載があったからこそだが、残念ながら同誌は休刊となってしまった。このサイトにアップロードしていた「本誌編集長の独断書評」は、そういうわけで一時中断します。でも、できればこのサイトで書き下ろしのかたちで継続したいと思っている。これまでの全26回分を編集してPDFのファイルにまとめたので、ウェブで読むのが面倒な人はここからダウンロードして、印刷して読んでください。読み返すとずいぶん荒っぽいことを書いているけれど、最小限度の手直ししかしていません。
さて、「婦人公論」の書評は隔週締め切りで、2ヶ月以上ぼやぼやしていたら予告どころか雑誌のほうが先に出てしまった。「自壊するアメリカ」のあとに書いた書評は、『2ちゃんねる宣言』(井上トシユキ+神宮前org)、『フランス三昧』(篠沢秀夫)、『情熱の女流「昆虫画家」』(中野京子)、『雑音考』(樋口覚)、『ガムテープで風邪が治る』(枡野浩一)、『東京の名家』(石村博子)。このあと、草間弥生の自伝などが続く予定。
3月9日(土)
「婦人公論」の書評会議は毎回楽しい。ようやく最初の回の分が発売になるが、すでに数回分先まで取り上げる本が決まっている(ちなみに次号は「2ちゃんねる宣言」が載ります)。書評会議では4者4様の本とのつきあい方がはっきりしていて面白い。豊崎さんはプロの本読みとして、愛情深く、ときには厳しく、机に並べられた本だけじゃなくて最近の注目作を漏らさず話題に出しながら会議をリードしてくれる。ほんとうに豊崎さんの読書量には頭が下がる。白石さん、渡邊さんはともに詩人なので、とてもマイペースというか、自分と本との距離感をしっかり持っている感じだ。渡邊さんは実用書とノンフィクションの鬼とでもいうか、この本は役に立つ、この本はすごい、と、これまた役に立つ話をたくさん教えてくれる。白石さんはわりかし寡黙だが、時折、寸鉄のごとき鋭い男性観(!)を述べられ、黒一点としては苦笑いする一幕も。うむむ。いちばん中途半端に本とつきあっているのは編集をなりわいとする自分ではないか、と反省させられることしきり。とにかく毎回刺激をうけています。
2月3日(日)
今年から書評の仕事が少し増えて、「婦人公論」で毎号書評係をつとめることになった。豊崎由美さん、白石公子さん、渡邊十絲子さんといった強者の女史たちに混じって黒一点での参加。「コンポジット」の連載とはちがって、一冊の本を紹介するふつうの書評だけど、機会があったら読んでください。(しかし、「婦人公論」の読者層っていうのは予想がつかないな。私、読んでいます、と言う方はぜひご連絡ください)。テキストはウェブでは当分公開しませんが、書評した書目は報告します。さて、その第一弾として選んだのは、赤木昭夫「自壊するアメリカ」(ちくま新書)。あのテロ事件関係の本はたくさんでているが、ほとんどがタリバンやビン・ラディンなどテロ実行犯とされた側の「特異性」をいいつのるものだった。でも、この本はちがう。検証の目をアメリカに向けて、テロにいたった経緯を丹念に追っている。
テロ事件にかんしてイスラムの側を見つめ直した本のなかでは、竹下節子「テロリズムの彼方へ、我らを導くものはなにか」(文春ネスコ)がよかった。イスラムを特異な文化としてではなく、いまの現実社会のなかでどのような位置を占めるものなのかがよくわかる。そして、その行き着く先には、上の本と同様、やはりアメリカが現れる。つまり、あの事件は徹頭徹尾、アメリカの事件なのだ。
2002年1月20日(日)
あけましておめでとうございます、というにはだいぶ日がたってしまいましたが、ことしものんびり更新しますのでよろしくお願いいたします。
最近おもしろく読んでいるのが、廣済堂ライブラリー。メディア論の叢書なのだけれど、考察の対象がデジタルメディアから「腕時計」「洋服」、はては「フットボール」「遺伝子」といったところまで広くカバーされているのがいい。港千尋『第三の眼』、服部桂『メディアの予言者』、井上雅人『洋服と日本人』、香山リカ『多重化するリアル』の4冊を読んだけれど、はずれはなかった。編集者の力量を感じる。この手の判型の本は、みためはかわいらしい割に売れにくい(書店で決まった場所におかれないため)のだが、乱造される他の教養新書とは一線を画して、ぜひいまのペースとクオリティで刊行しつづけてほしい。
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