編集長日記 (2001年1月〜12月)

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12月11日(火)

 角川書店から出たばかりの『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』という本がとてもいい。いわゆる「同時多発テロ」(話がそれるけれど、この言葉ほどひどいマスコミ用語もないだろう)をうけて立ち上がった出版企画はいくつもあるが、いまのところこの本が最良のものだとぼくは思う。書き手は、作家・学者・評論家・マンガ家・写真家・アーティストなど、日本人を中心にした23人。それぞれ専門の立場はあれど、とにかく「個」としての発言をきちんとおこなっている。事件へのとまどい非難も共感もふくめて、事件に対して、すぐ反応するのではなく、時間をかけて自分自身のリアリティをさぐりあてながら、ていねいに紡がれた言葉たちが並ぶ。そのため、この本を企画立案した編集者の思いも、とてもよくつたわってくる。

 はっきりいって、事件直後に出た「文春」の別冊『これは戦争だ』や、それからやや遅れて出た「現代思想」の別冊『これは戦争か』は、どちらもよくいっても「手慣れた仕事」であり、だからこそ、あれだけ直ぐにだせたのだろう。したがって、便乗本といわれてもしょうがない。つまり、あの事件がこれまでの自分たちの仕事の「手つき」であつかえる範疇にあると思える、幸福な出版人による仕事なのだ。でも、それでは、なにも新しい考えを生むことはできない。たんに、おたがいの立場の違いを再認識させられただけだ。でも、今回の角川の本はちがう。これは、サブカルチャー出版社としての角川書店の最良の仕事のひとつだと思う。なぜなら、ここには書き手たちの率直なとまどい、逡巡、怒りがみられるからだ。そして、にもかかわらず、というか、だからこそ、この混乱した事態のなかで、それぞれの書き手がそれでも決然として「個であろうとする」決意を明らかにしているからだ。

 サブカルチャー、という言葉も、もう終わりにしていい。この本を読んで、まず思ったことはそれだ。文春的なオヤジ・リアリズムや、現代思想的なインテリ・スノビズムよりも、ごくふつうに生き、感じ、ものをつくってきたこれらの書き手の言葉はずっと、ぼくらのリアルな気持ちを言い当てている。なんどもいうけれど、それはこれが、「個」から立ち上る、だれからも強制されない言葉だからだ。そして、もっとものびやかに、それを表現できる場を提供できた出版社が、いまの角川書店のようなサブカルチャー出版社だったことには、なにか必然性があるように思う。

 最後に、この本に文章を寄せた23人の名前を列挙しておく。(個人的には、日高隆の冷静なマスコミ報道の分析にもっとも深く感銘をうけた)

 片岡義男/橋本治/大塚英志/江川達也/田口ランディ/森達也/養老孟司/池田晶子/村上隆/P・クルーグマン/中島義道/北野一/駒沢敏器/野村進/副島隆彦/斉藤環/星野智幸/B・シュナイアー/島尾伸三/濱田順子/C・V・ウォルフレン/日高隆/小林エリカ 

12月8日(土)

 早くも年末ですね。ただでさえ出版界は年末となるとあわただしいのに、今年は人文書専門の取次・鈴木書店が自己破産したことで、出版界の一部は浮き足立っている。とはいっても、あくまでそれは「一部」であって、雑誌などを中心に仕事をしている出版人にとっては、「鈴木書店、それなに?」というところだろう。いわんや、一般の読者にはまったく関係ない話ではある。

 2ちゃんねるのスレッドなどを見ていると、鈴木書店を熱心に支持してきたのは、出版社ではなくてむしろ真面目な一部の書店人たちだったようだ。書店は流通過程の一部でもあるけれど、なかには「読者」的センスをもった書店人がいて、かれらは商売という観点だけでなく、自らの読者としての思いもふくめて、良書(というよりも少数しか刷られない「ある種の本」)をきちんとほかの読者に届けようとしてきたのだろう。そして、そういうきめ細かい書棚づくりをしようと思った場合、対応してくれる取次ぎが、これまでは鈴木書店しかなかった、ということみたいだ。

 鈴木書店の破綻を「良書幻想」の崩壊と位置づけるのはかんたんだけど、それはちょっと問題のすり替えのように思う。もちろん、すでに人文的な哲学や思想が実効性を失っているとか、読者の多くが求めていないということはあるだろうけれど、そういう議論はここでは意味がない。なぜなら、ある書物を求めるかどうかは、もっぱら読者ひとりひとりの必然性にもとづくものだからだ。実効性がなかろうが時代遅れだろうが、そういうものを「読みたい」と思う読者がいれば、それは本として出ていいし、売られていい。ただし、それははじめからビジネス=金儲けにはならないとあきらめるしかない。そして、多くの人文系出版社は、はじめからビジネスにならないとわかって仕事をしているのだ。それが時代錯誤だろうと、そういう営みを嗤うことはできない。

 ぼくは、出版社ではなく、やはり書店のありかたに問題があるようにおもう。書店は商店でもあるけれど、同時に本との出会いの場、インターフェイスでもある。いま図書館がベストセラーの本を大量に購入することや、新古書店やマンガ喫茶の存在が「出版危機」の原因としてやり玉にあげられたりするけれど、それは全く逆だろう。これまでなら、ごく普通の人は、そもそも図書館や古本屋などには足を運ばないのがふつうだった。街の「本屋さん」だけが、かれらにとって本と出会う唯一のインターフェイスだったわけだ。ところが、街の書店がまず、インターフェイス機能を喪失してきた。さらには都会の大規模書店の書棚も混乱してくる。読者はなかなか、そこで読みたい本を見つけることができない。そんなとき、オルタナティブな選択肢として視野に入ってきたのが、「意外と新刊の揃っている公共図書館」とか「新古書店」の存在なのではないか。そして、たぶんそれは口コミ的に広まったんだと思う。おそらく、図書館や新古書店のユーザーは、ごくふつうの本好きだ。かれらは別に、お金をケチってるわけでもなんでもなく、単に読みたい本を効率的に(まあ、できればより楽に・安く、ということはあるだろうが)消費したいだけなのだ。

 ユーザーとか消費という言葉を、本にあてはめるのはマチガイという考え方もあるけれど、そうだとしたら、もうそれは商売の問題ではないと言うことになる。ぼく自身も、みずからを本の消費者だと思っているし、ヘヴィ・ユーザーだと思っている。「読書」という言葉を神聖視する考え方は、すでに時代錯誤だろう。本は、使われてなんぼのものだし、対価を払ってあがなう以上、消費の対象対象なのだ。消費という行為のもつ意味をきちんと分析しないで、なんだか本にたいする冒涜であるかのように考えるのは、悪しき左翼主義の残滓だ。むしろ、本を「使う」、本を「消費する」ということに意識を向けずに、神棚に納めるご神体のようにあつかってきたのがこれまでの出版界、特に人文書の世界だったのだとしたら、鈴木書店の破綻も仕方がない。でも、それはある種の宗教やイデオロギーの終わりであって、本そのものの終わりを意味するわけではない。

11月4日(日)

 最近DVDや音楽CDのボックスセットをよく買うようになった。とくに音楽にかんしては、よくできた各種の編纂ものがめだってきたように思う。最近買ったのは、Rhinoからでた『SAY IT LOUD! A Celebration of BLACK MUSIC In America』というアメリカ黒人音楽の6枚組コンピレーション。ブラックミュージックには通りいっぺんの知識しかなかったが、この6枚を通して聞くと、20世紀におけるポップミュージックの革新を押し進めた原動力はなにより黒人音楽だったこと、そしてその裏にはアメリカ現代社会の激動が背中合わせになっていることがよくわかる。

 くわしい収録作品リストは上のリンクをたどってRHINOのサイトで確認してほしいけれど、とにかくスコット・ジョプリンからはじまってリヴィング・カラーとクーリオでおわる全108アーティストの1人1曲は、ブルース、R&B、ゴスペル、モータウン・サウンド、ロックンロール、ジャズ、アートロック、ファンク、ラップ、ヒップホップとあらゆる音楽ジャンルを網羅しながら、しかも一貫した流れを感じさせる。もし黒人音楽がなかったら、20世紀のポップミュージックは存在しなかった、とさえいっていいだろう。そして、この絢爛豪華な曲目のあいだに、ラジオやテレビで放送された黒人の社会的地位にかかわる歴史的な発言の音源がさしはさまれる。有名なマーチン・ルーサー・キングJr.の「I have a dream」や「Mountain Top」のスピーチはもちろんのこと、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディといった大統領や、黒人のスポーツ選手や政治家たちのマニフェストやスピーチが曲間におさまることで、このCDセットにおさめられた曲の歴史的な位置づけがよくわかるようになっている。

 こういう編纂もののCDをみると、編者たちの音楽への愛情や真摯な姿勢を感じるとともに、編集者としてはひとこと、「うらやましい!」といいたくなる。かりに黒人音楽にかんする単行本の企画を紙の本で考えたとしても、このアルバムセットに匹敵するような説得力をもつようなものはどうやったってできない。さらに、このアルバムセットについている72ページほどのブックレットがまた簡にして要を得たつくりですばらしい。本というメディアの位置づけは、もしかしたらこういうかたちが一番幸福なのかもしれない、とまで思ってしまった。RHINOはこの「SAY IT LOUD!」の公式サイトも開いており、ネットを使ってさらにこの企画を展開している。だとすると、文字情報をつたえるメディアとしての本の位置づけが、やや副次的なものとなるのはしかたがないのかもしれない。

 もちろん音楽や映像の受け手と活字の読者を単純に対比しても意味はないけれど、ポピュラー音楽がもちえたバックカタログの豊富さやリスナーの厚みが、いまこうしたかなり高度な編纂ものの刊行を可能にしているのだと思うと、やはりうらやましい、の一言が出てしまうのだった。

10月15日(月)

 この欄の(ということは、『書評パンチ!』の、ということでもあるのだが)更新が遅れてしまうのは、出版業界動向を批評しようという意識にとらわれすぎているからじゃないか、という反省にたって、これからはもうすこし個人的な読書生活についても気楽に書いてみることにする。とはいっても、仕事上やむをえず読む本と、このサイトにも転載している雑誌「Composite」でやっている連載書評のための本をのぞくと、個人的な楽しみとして読んでいる本はひどく少ない。古本も新刊本もたくさん買い込んではいるけれど、その多くはやはり「積ん読」用だ。

 そんななか、唯一いま楽しみながら読んでいるのは吉川英治の「新・平家物語」。朝日新聞社版の全24巻が古本で3000円だったので、一箱まとめて買って、挿絵や装丁を楽しみながらゆっくり読んでいる。それと平行して、宮尾登美子の『宮尾版・平家物語』と橋本治の『双調平家物語』も、単行本が刊行されるごとに読みすすめている。そのほか、光瀬龍の『平家物語』とか花田清輝の『小説平家』、ネット上の平家物語の全訳などなど、異バージョンの「平家」を同時にいろいろ読み進めているのだが、これが意外と面白い。

 こういう読み方をしていると複数の物語世界や人物造形が混乱しないか、と心配したのだけれど、意外とそうでもない。むしろ、異バージョンの「物語」が違った角度から光をあててくれることで、登場人物の造形が相乗効果によってより深まっていくような気さえする。もちろん、それぞれの「平家」はまぎれもなく近代的な書物なのだが、同時並行でそれらを読むことで、もともとのオーラルな平家がもっていた多層性が復活してくるような気さえする。

 これまでこの日記でも書いてきたように、近代的な書物の終わりが見え始めてきているとはいっても、すぐに商品としての書物の姿がかわるわけではないだろう。でも、本の読み方、本とのつきあいかたのようなものは、いま大きく変わりつつあるのではないか。三浦雅士『青春の終焉』によれば、そうした近代的な書物観(とくに文学観)が生まれたのは日本でも明治以降というより、むしろ19世紀の滝沢馬琴のころからだという。馬琴の『八犬伝』は時代的には太平記に近いが、やはり平家物語の枠組みをかなり濃厚に受け継いでいる。馬琴〜吉川英治〜橋本治という流れで、さまざまな平家を読み返しながら、いまがまさに書物にとっても物語にとってもひとつの「転形期」なんだろうな、ということを、まるで源氏の頭領のようなオサマ・ビンラディンのテレビにうつる映像をみながら、ぼんやりと考えているところだ。

10月7日(日)

 またもや律儀にきっちり二ヶ月あけてしましました。もはや「隔月記」ですが、ときどき更新しますのでおつきあいください。

 さて、出版界もどうもこのところ停滞気味で、ITバブルの崩壊とあわせて紙も電子もどっちもだめ、といったゆきづまり感に覆われている。とつぜん降って湧いたようなアメリカの「空爆」事件の話題ばかりがうわすべりで続いているのが象徴的だけど、でもこの「テロ」はやはり他人事ではない。日本人にも被害者がいるからでも、「自由と民主主義社会への挑戦」だからでもなくて、もはや日本人の生活が「アメリカ的=20世紀的な大量生産・大量消費システム」にどっぷりつかっており、出版や本の世界もその例外ではないからだ。そうした「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の限界がはっきりしてきたことが、いまの経済・文化の停滞というかたちであらわれている。したがって、今回の「空爆」事件はなにかのはじまりではない。すでに深く進行していた事態がはっきり目にみえるかたちで浮上してきただけだと思う。

 こんなとき、どんな本を読んで考えたらいいのか。ぼくは四方田犬彦が編集した『グレイテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明』とハルバースタムの『ベスト・アンド・ブライテスト』と橋本治の『90』を読みかえしている。「いま、なにを考えたらいいのか」ということ自体を考えるために。そして、考えるということはほんとうは、そういうことなんじゃないだろうか。あふれかえっている「同時多発テロ(それにしてもひどい言葉だ、これは。)」報道を見ながら、そう思う。

8月4日(土)

 えー、すみません。二ヶ月ごぶさたしてしまいました。こうなると日記の名を返上したくなりますが、のんびりしたクロニクルということでご承知ください。さて。ブリタニカ・オンラインが7月なかばに有料化を発表した。さっそくその月末からサイトへのアクセスが一部有料化され、月額5ドルか年額50ドルが課せられることになった。これまでウェブサイトの有料化は成功しない、というのが定説だったけれど、ぼくはさっそく申し込んだ。なにしろ、月に600円だ。いま有料で購読しているのはほかに、朝日新聞のasahi.com.perfectがあるが、こちらは月に3000円(ただし簡略版500円は)。しかも、記事データベースを利用する場合、検索結果を表示するのにさらに一件あたり80円とられる。いつか必要になるかもしれないと思ってこれまで払ってきたけれど、ブリタニカの値段にくらべるとべらぼうに高い。簡略版への切り替えを検討しているところだ。

 ネット上のコンテンツに対して、対価を払うべきかどうか。ひつじ書房の松本さんは「むしろ払いたい人が払えるようなしくみを用意すべきだ」という。これは、人はなるべくお金をつかいたくないものだ、という常識的な考えとは逆の考え方だ。問題は、払うべきかどうかではなくて、簡便な払えるしくみがあるかどうかだ、というの彼の意見に賛成する。お金を払うと言うことは、払った対象に一定の発言権を有すると言うことでもある。いわば、選挙の投票のようなものだ。いまインターネットのユーザーはほとんどが「無党派層」であり、しかもかれらはネット上のコンテンツに対しては「棄権」せざるをえないような立場にある。もちろん、お金をはらうばかりが「参加」のしかたではなく、より積極的に掲示板に書き込んだり、投稿したり、すくなくとも作り手に応援のメールを送ったり……というようなかたちでの寄与はありうる。でも、ほとんどの人は、ネットにかぎらず、これまでのメディアにだってそのようなかたちでは関わることができない。唯一、お金を払うというかたちで、メディアに対する発言権をもっているというのが本当だろう。

 もちろんブリタニカの場合、そこまで考えて有料ユーザーになったわけではない。これまでタダでぞんぶんに利用してきたものが、これからは使えなくなるのはイヤだな、とおもっただけだ。でも、体感的に月に600円という額は、決して高くない。もし紙の百科事典を持っているとして、平均して月に一回つかうかだろうか。でも、かりに紙の百科が20万円で買えたとして、月600円のローンでは利子抜きでも30年かかってしまう。逆に10年間使い通しても7万2000円ですむのだ。これはAsahi.com.perfectの二年分にしかあたらない。それを考えると決して高い値段ではない。

 もうひとつ、ネットでのコンテンツ有料化のほかに、もう一度パッケージ系のメディアを見直してもいいように思えてきた。じつは、ブリタニカにはDVD版もでており、そちらもつい買ってしまった。DVDなので映像も音声もかなりたっぷり入っていて、しかも値段はわずか60ドル。一桁間違いじゃないかと思うくらい安い。それに、なんというか、手元のパソコンの上にデータを入れておきたいという気持ちが、ぼくのなかにはいまだに残っている。最近有料でオンラインサービスをはじめた小学館のジャパンナレッジを横目に、CD−ROM版の「スーパーニッポニカ」を買って、手元のノートパソコンにインストールしているのもそのせいだ。

 率直にいって、CDーROMが定着しなかったのは、たんに出し入れのめんどくささのせいだけだと思う。ハードディスクが最低でも10ギガ以上の時代になって、CDーROMで提供されたコンテンツをそのまま収納することが簡単になった。ようするに、ハードディスクが書庫になるわけだ。そうなってしまえば、CDーROMもなにも関係ない。ブロードバンドの時代には、1ギガ程度のコンテンツをダウンロードすることだって、不可能ではない。そもそもCD−ROMなんていう物理的な流通形態の名前がメディアの呼び名として通用していたことがおかしい。それは、本を「紙」と呼ぶようなものだからだ。過渡期的な段階がようやくおわって、デジタルコンテンツの黄金時代が、これから始まる予感がする。

 

6月5日(火)

 もろもろ事情がかさなり、一月ほどごぶさたしました。編集長日記を再開します。

 このあいだ『銀花』という雑誌の最新号を読んでいたら、今年2001年が、アルドゥス・マヌティウスによる八折り本の誕生から500周年であることを知らされた。八折り本とは、全紙を八つに折り畳んだサイズの小型本で、いまの「文庫本」の元祖にあたるものだ。この短い記事を読んであらためて驚かされたのは、この八折り本の誕生が、グーテンベルクの活版印刷術の発明からわずか半世紀後だった、ということだ。十五世紀なかばにグーテンベルクが活版印刷術によって刊行した最初の本は、従来の手写本をそっくり模した大判の「四十二行聖書」だった。それが、たった(というべきだろう)50年後には、活版印刷の長所をいかんなく発揮した、携帯可能で読みやすい、八折り本にまで小型化された。そして、本のこのサイズは、その後500年間、ほとんど変わることなく受け継がれた。そのことには、とても大きな意味があると思う。

 あたらしいテクノロジーが生まれると、それが適正な用途に使われるまでには、試行錯誤の時期がつづく。活版印刷術の場合は、それがおよそ50年だった。そして、ひとたび小型の携帯本という使い道がみつかるや、それは、その後500年間も変わらないでつづくひとつの「習慣」や「身体感覚」を生み出す。十五世紀における50年という時間は、二十一世紀の技術革新のスピードに変換すると、ほとんど数年という感じではないだろうか。

 つまり、意外と早くに、僕らはいまのめまぐるしい技術革新のなかから、適切な身体感覚をさぐりあて、それが数百年つづく身体感覚になるという可能性もあるのではないか、と思うのだ。もちろんそれはこれまでの「本」を模したものである必要はなくて、むしろまったく別のものになる可能性が高い。たとえば携帯電話を考えてみよう。ある世代にとって、すでにあの「携帯型のパーソナルな情報機器」は、一種の身体感覚を生み出している。もしかしたら携帯電話こそ、現代の「八折り本」なのかもしれない。あと数年で、携帯電話を祖とする新しいタイプの情報機器が、こののち数百年つづくぼくらの情報受容の基本的なかたちをつくりあげていくのかもしれない。

4月28日(土)

 先週、東京ビッグサイトでおこなわれていた東京国際ブックフェアに行ってきた。今年も活気があったのは紙の本ではなく電子出版のコーナーのほうで、なかでもイーブックイニシアチブがデモ展示していた携帯読書端末が話題となっていた。イーブックイニシアチブは、以前電子書籍コンソーシアムを率いていた小学館の鈴木雄介氏が社長となって設立した新会社。すでにマンガを中心にしたコンテンツをネット経由でダウンロード販売するオンライン書店「10daysbook」というサイトをオープンしている。このサイトにかんしてはまだ不満も多く、そのことは他の場所でも書いたので割愛するが、むしろ気になったのは、この読書端末からうかがえる、「本の電子化」への執念とも言える欲求のほうなのだ。

 紙の本のビジネスがさまざまな理由で、いま限界にきていることはたしかだ。しかしそれは個々の「本」というメディアが限界にきたということを必ずしも意味しない。個々の本ではなく、全体としての本、そうした本で構成される一つの小宇宙が、いま、破綻を来しはじめているのだ。ここから、戦線を思い切って縮小して、個々の本をオブジェやスタンドアロン端末として守りきろうという考えがでてきてもおかしくないが、それは同時に本のメディアとしての終わりを意味する。その逆には、紙の本が潜在的にもってきたネットワーク性を、紙とはべつのかたちで実現しよう、という考えがでてきてもおかしくない。そして、これまで本が担ってきたテキスト(や知)のネットワークは、いまインターネットのなかで、すでに一部は、実質的に実現されつつある。

 そこで話は冒頭の「本を模した」読書端末の話にもどる。イーブックイニシアチブでも電子書籍コンソーシアムでもそうだったけれど、いま開発されようとしている「本を模した」読書端末というものは、本当に必要なものなのだろうか。いや、万人にとって必要でなくてもいいけれど、すくなくとも一部でもいいから、読者の側に求められているものなのだろうか。どうも、ぼくにはそうは思えないのだ。これまで書物がかかえてきたコンテンツを電子的に読めるようにすることには、大きな意味がある。しかし、それを読むときに、「本を模した」インターフェイスがどこまで必要なのか。まだコンピュータもインターネットも一般的でなかった時代には、わかりやすさのためにある程度「本を装う」ことも必要だっただろう。でも、そろそろ、必然性のない「本の模倣」はやめてもいい時期に来ているのではないか。

 もちろん、人が文章を読むときに快適と感じられるインターフェイスのためのヒントは、これまでの本のなかにたくさんつまっているだろう。そのなかで、電子的な読書環境にも必要なもの、紙の時代には必要だったけれどデジタル環境では必要でないもの、さらには紙のときには必要なかったけれどもデジタルでは必要なものを切り分けて、とことん考える必要があるのではないか。いまのところ、それをとことん考え尽くした電子的な読書のためのインターフェイスは、ウェブブラウザ以外には存在しないと思う。いまさかんにアメリカでも開発されているeBook readerも、その意味ではひどく中途半端なしろものにしか思えない。

 ……とはいってみたものの、携帯できる電子的な「テキストリーダー」が欲しいという妄想じみた思いはいまだにぼくのなかにもあって、最近出たCLIEの新しいバージョンを買ってしまった。ここにウェブのコンテンツをダウンロードして持ち歩くのは、けっこう面白い。その気になれば、百科事典の項目をある程度まとめて入れてしまうことだってできるのだ。もちろん、まだまだ十分なものではないけれど、いわゆる「電子書籍」のようなアプローチよりはずっと、ことの本質に迫っているように思える。このあたり、もう少しつきつめて、いずれ考えてみたい。

4月11日(水)

  「本とコンピュータ」編集室と大日本印刷、そして人文書の出版社6社が協同してはじめたオンデマンド出版のプロジェクト、「リキエスタ」が、先日発表になった。いずれも50から100ページ前後の薄いパンフレット的な本ばかり。ユネスコの定義では、「本」というのは、表紙をのぞいて48ページ以上の非定期刊行物、ということだから、まさに「リキエスタ」の試みは、「本として定義しうるギリギリの出版物」をいかにして今後作り続けられるか、という実験と見なせるだろう。つまり、オンデマンド印刷であることはかならずしも必要条件ではなくて、十分条件なのだ。もし、ある種の書物が必要とされているにもかかわらず、他の方法では出版できないのであれば、オンデマンド印刷といういささか高コストのやりかたであっても、本を出し続ける手段があることを示すこと。今回の試みの肝はそこだ、と個人的には思う。

 で、さっそく何冊か購入し、読んでみた。なにより待ち遠しかったのは『小野二郎の書物論』。晶文社の伝説的な編集者でウィリアム・モリスをはじめとする英文学の研究者でもあった小野の著書は、残念ながら現在、ほとんど手に入らない。小野の編集者としての仕事の基本にあった、かれの書物への考え方は、本の定義がコンピュータとの出逢いによってゆらいでいる今、どのように読めるか。それがいちばんの関心だった。ここは書評の欄ではないので詳細には論じられないが、小野の書物観の基礎にあったのはやはり、物として、オブジェとしての本だった、ということがよくわかる。表紙、扉、もくじ、そして奥付。そうした本の「形式」への厳しい要求が、モリスを通して小野が獲得した書物観だった。そして、いままさに消えようとしているのが、そうした意味での本なのだ。小野の定義にしたがえば、すでに文庫本は本ではないし、電子ブックなど、定義上存在し得ない。角川文庫で「本」に出会ったぼくなどは、いうなれば書物の死後に本を読み始めた世代ということになる。そして、たぶんそう言ってしまうことは正しいのだ。

 同じ晶文社のラインナップには『中平卓馬の写真論』もあって、「書物論」とセットで読むと面白い。写真という表現があまりに文学的であること、そういう写真のあり方では自らがこれが世界であるとみなすものを世界として提示することしかできない、ということに気づいた中平が写真を撮ることを数年にわたり止めた時期の、饒舌で痛々しい論考だ。ぼくは、写真もまた、独立した「表現ジャンル」としては終わったと思っている。今回の木村伊兵衛賞がHIROMIX、長島由利枝、蜷川美花の三人受賞と聴いたときにそれを改めて確信した。これは木村伊兵衛賞的な写真の終わりであると同時に、写真が文学であることを必要としなくなり、たんなる「フォトグラフ」、中平がそうあろうと望んだたんなる光の痕跡に、回帰できたことを示している。問題はあくまで、それを撮る(あるいは書く、編集する、つくる)側の人間の意識である。技術は、中立的ではないが、やはり従属変数であることにかわりはない。

 写真が文学からたんなる「光の痕跡」に戻ったように、本もまた、たんなる「紙の束」に戻るべきだ。そこに刷られたテキストは、あらゆる書物幻想から解放され、あらたな読まれ方をする。オンデマンド印刷による貧弱なたたずまいの本が逆説的に持ちうる力はそこにある。そして、もしその貧弱さを引き受けてもなおかつ読まれるテキストならば、紙から離れて、たんなる電子データになったとしても、なお読まれるだろう。本から「書物」という幻想を剥がし取ることは、フォトグラフから「写真」という幻想を剥がしとることと同じであり、しかもフォトグラフより30年近く遅れている、ということが、晶文社からオンデマンド復刻された二冊の本を読んでの、ぼくの個人的な感想だ。

3月27日(火)

 以前、電子文庫パブリのオンデマンド・サービスで福永武彦の『加田伶太郎全集』を4000円以上も出して買った話を書いたが、最近扶桑社が出している絶版復刻の文庫シリーズで、まさにこの『加田伶太郎全集』が復刻された。釈然としない気持ちになりながらも、扶桑社版を購入(たったの762円)して、両者を見比べてみると、値段以外にも新潮社版への不満がでてきた。

 新潮社版の「全集」と扶桑社版とでは、収録作品数にかなりの違いがある。新潮社版におさめられているのは「完全犯罪」「幽霊事件」「温室事件」「失踪事件」「電話事件」「眠りの誘惑」「湖畔事件」「赤い靴」と、「素人探偵誕生記」の計9編。対して扶桑社版には、上記9編に加えて、福永武彦名義による「序」、「女か西瓜か」「サンタクロースの贈り物」「地球を遠く離れて」「作者を捜す三人の登場人物」の四編、さらにミステリをめぐるエッセイ4編、江戸川乱歩、平野謙、都筑道夫、結城昌治、丸谷才一、三浦朱門らによる解説・エッセイまでもが収録されている。ページ数も、新潮社版は396ページ、扶桑社版は文庫ながら592ページ。これは完全に勝負あった、である。

 もちろん、新潮社を責めているのではない。扶桑社の絶版復刻シリーズの企画力をほめているのだ。加田伶太郎だけでなく、小栗虫太郎や横溝正史、都筑道夫、戸川昌子といった現代日本ミステリ史のまさに至宝といえる作品を、ふんだんな解説を交えて今によみがえらせていこうという志。オンデマンドであろうとオフセットであろうと、ある本を復刻しようと思えば、そうした志や、今の時代へのコンテキストづくりは欠かせないはずだ。そして、それこそが電子文庫パブリをはじめとするオンデマンドや電子ブックによる復刻出版にもっとも欠けている部分なのだ。

3月3日(土)

 最近本屋に行って気づいたことがいくつかある。前にちょっと悪く書いた地元の駅前書店は、以前よりだいぶ堅い本も置くようになってそれはそれでいいのだけれど、最近、新刊書の棚を一部、取り次ぎから入った日付順に本を並べるコーナーに変えた。もちろん、平台や棚のそれぞれの位置にも同じ本が置かれているのだけれど、それとは別に、「今日の新刊」「30日」「25日」といったように、本の「鮮度」順に並べてあるのだ。 そこに、ジャンルも判型も関係なく、とにかく新しい本は順に並ぶわけだ。発売されたばかりの本だと、このしくみはけっこう便利なんだけれど、それにしても、ここから外れた本がかならず棚に差される保証はどこにもない。「鮮度」がなくなったら、「賞味期限」が切れたということで、あえなく返品になるのだろうか。

  もうひとつ。少し離れた別の駅まえにある紀伊国屋。ここは、最近文庫本を、出版社別でなくすべてまとめて、著者の五十音順配列に変えた。棚が汚くなっても、お客さんが捜しやすいようにということなんだろうか。それとも、棚をきちんとつくれる書店員・アルバイトがいないから、売る側にとってもこういう機械的なやり方が楽なんだろうか。 昔、文庫本を買い始めたときに、角川や講談社、ハヤカワといった比較的サブカルチャーよりの文庫と、新潮、中公、文春、そして岩波といった大人向け文庫には、ラインナップやたたずまいに、あきらかな違いがあった。まだこれは自分には読めないな、これは自分でもそろそろ手が届くな、といった、各出版社の文化のにおいや雰囲気を、それとなく、子どもだったぼくは感じていた。そういう、出版社がもつ文化の違いから、「本」というメディアに対するリテラシーを身につけるという習慣は、五十音順配列からは得られない。

 最近佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』を読んだけれど、ぼくは「本」は死なないと思う。しかし、本屋の死はまちがいなく近づいている。本屋は、「本を売る」のが商売ではない。ほんとうは「本を売るというサービス」を売っているのだ。日付順とか、五十音順によって本を配列するならば、オンライン書店のデータベースには太刀打ちできない。そういう棚で済むのならば、そこに本屋が介在する意味はまったくないのだ。まちがいなく、いまリアル書店の一部は、「死」につつあるようだ。

2月7日(水)

 「Internet Watch」の今日のニュースで、アマゾン・コムが「訪問者がお気に入りのサイトにチップを与えたり、有料コンテンツの料金支払うことができる決済システム「Amazon Honor System」を提供開始すると発表した」と報道されている。これはまさに、『投げ銭システム』のアマゾン版だ。例の「ワンクリック」のしくみをつかった少額決済を、コンテンツ販売をしている他のサイトに提供して、そこから手数料を取るということのようだ。まだ英語のリリースをきちんと読んでないけど、これはけっこう普及するのでは。アマゾンにはこれまでも、「アソシエート・プログラム」という、他のサイトからアマゾンに飛んで本を買いに来たら、最高15パーセントのkickbackをするというシステムがあって、書評のサイトなんかにはとてもいい仕組みだと思っていたけれど、「ワンクリック」の貸し出しは、それをさらに一歩進めたものだ。どのくらい手数料をとるのかなど、少し調べてみたいが、いずれにしてもジェフ・ベゾスの目の付けどころはいいと思う。アマゾンはこの先、だんだん「もの」を売るのではなくて、こうした「サービス」を売る(仲介手数料をする)かたちのビジネスになっていくのではないか、という予感がする。

2001年1月24日(水)

 21世紀に入って最初の日記です。今年ものんびり更新しますので、どうぞよろしく。出版界の構造変化と、インターネットのメディアとしての定着が、今年は本格化するように思っている。アメリカでは、正式にAOLタイムワーナーというお化け企業が誕生。AOLという一介のインターネットプロバイダーが、タイムワーナーという出版(タイム社)、映画(ワーナー映画)、音楽(ワーナーミュージック)、ケーブルテレビ(CNN)の全ジャンルをカバーするメディア界のトップ企業を事実上買収した、というニュースは、もっと日本でもさわがれていいはず。もはや、これまでのアナログ系メディア企業は、デジタルネットワークへのコンテンツ提供業でしかなくなるのか。それとも、違った未来がありうるのか。大企業であればあるほど、こうした流れにはさからうのが難しいだろう。小さな出版社は、紙の世界でもなんとか生き残れるかもしれないが、むしろ日本の大出版社が、今後どうなるのか、注目したいと思う。

 電子ブックビジネスも、アメリカではかなり本格化している。前から注目していた、Palm Pilot用の電子ブック販売サイトだったPeanut Pressを久しぶりに除いてみたら、NetLibraryの一部門になっていた。そのおかげか、提供されている電子ブックのコンテンツが格段にゆたかになっている。もとから、SFなどのエンターテインメント作品はあったが、加えて、モダンライブラリー(近代文学の古典)や、人文系・文学系の作品もかなり加わっている。驚いたのは、昨年出たばかりで、僕も洋書屋で買ったブルースの歴史を書いた本、『Spinning Blues Into Gold The Chess Brothers and the Legendary Chess Records』が電子本としても出ていたこと。紙版を持っているけど、なかなか読む時間がなかったので、電子ブックも買うことにした。もとの本は大判(B5判くらい)のハードカバーの大著で、ちょっと持ち歩いて読むという感じの本ではない。でも、これをSONYのCLIEに入れてしまえば、文庫本以下のサイズに収まる。英語だから、ちょびちょび読むわけで、それにはけっこう、電子ブックは向いている。この本、シカゴにある有名なブルースのレコード会社、CHESSの話で、マディ・ウォーターズとかハウリン・ウルフとかチャック・ベリーが好きな僕にはたまらない。MP3ファイルでブルースの音源が聴ける電子ブック、なんていうのも、そのうち出てくるだろう。CD-ROMのような大仰なしかけがなくても、テキストと音だけなら、小さなPDAに収まるし、ネットワーク経由で簡単に配信できる。その程度の、こぶりなマルチメディア電子ブックが、そろそろ出てきていいはずだ。

 携帯電話と電子ブックとPDAの間の壁は、このさき、どんどん小さくなるだろう。電話とMP3プレーヤと電子書籍リーダーとテキスト書き込み機能を備えたデバイスが、1万円以下で出回るのも時間の問題だと思う。そのとき、そのデバイスで読まれる、聴かれるコンテンツはどんなものか、そろそろ、作り手の側も想像力を働かすときだろう。ぼくなら、やはり音楽書のいいものをつくってみたい。ジャズ、ブルース、シャンソンといった、古いポップミュージックの解説書兼入門書。テーマはマニアックでもいいと思う。とりあえず手始めに、流行のボリス・ヴィアンあたり、どこかでやりませんかね。中原昌也あたりに文章を書かせて。

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