編集長日記 (2000年3月〜12月)
12月12日(火)
電子書籍コンソーシアムの実験の成果が、少しだけ、ビジネスとして動き始めている。Internet Watchなどですでに報道されているように、イーブックイニシアティブジャパン(EBI)という会社が設立され、実験でつかわれたブラウザや電子化された本のデータをもとに、電子出版ビジネスをはじめている。さっそく、その販売サイト、10days bookを覗いて、本をダウンロードしてみた。立ち読み版でも10メガ近くあるので、ISDN回線でも数十分かかる。高速回線が普及するまでは、かなり不便だ。課金の支払いもちょっと面倒なので、正規版を購入する気にはならない。でも、ダウンロードが済んでしまったあとで、実際に読んでみると、これはこれでアリかな、とおもえた。とくに、マンガの販売方法としては、それなりに合理的だと思う。僕は南Q太の「あたしの女に手を出すな」を落としてみたのだけれど、最初の三作までは全部読めたので、立ち読みとしてはお得でした。もし、好きな作家の作品がラインナップにはいったら、紙の本をもっていても、買うだろうな、と思う。大島弓子、吉田秋生あたりを、個人的には期待したい。
電子書籍が、まがりなりにもビジネスとして始まりだしているのに対して、オンデマンド出版による紙の本のほうは、まだまだ混迷しているようだ。電子文庫パブリでは、新潮社が小林信彦の本をかなりそろえ始めた。僕の家にもある、『ビートルズの優しい夜』『紳士同盟』『神野推理氏の華麗な冒険』をはじめ、いつか読もうとおもってまだ読んでいなかった『夢の砦』(上下巻)といった、そんなに昔の作品でないものまで、電子化されている。ということは、もう文庫は絶版、ということだろう。しかも、電子データで買っても『夢の砦』は1700円。加田玲太郎のときの計算でいけば、これをオンデマンド印刷版で買えば、おそらく10000円以上になる。いくらなんでも、古書価で『夢の砦』が10000円ということはありえない。ブックオフで、数百円で売っていることだって十分ありえる。こんなに本の価格体系に混乱ができてしまったのは、あきらかに過剰生産、過剰消費のいまの出版態勢に問題がある。電子文庫パブリでの新潮社の本のセレクトには、それなりの審美眼があるとはおもうが、本来なら、これだけのクラスの本が絶版になっていることに、もっと忸怩たるものがあっていいはず。「今の時代、こんなにすばらしい本が絶版になってしまうんです。ごめんなさい。」ということなら、価格体系も見直した方がいいのでは。
かつて、RCサクセションの名作アルバム『シングルマン』が絶版にされたとき、ファンの熱烈な要望にこたえて、ポリドールレコードは数千部だけの限定で、再発リリースを行った。これがきっかけになって、このアルバムは不朽の名盤としての評価を確立し、その後のRCサクセションの復活に大きな役割をはたした。僕も、リイシュー後の『シングルマン』を聴いて、感激した世代の一人だ。でも、あのときポリドールは、当時のふつうのLPレコードの値段で、このアルバムを復刻した。もし、あれが「1万円」もしたら、ほとんどの人は買わなかっただろう。価格というのは、たんに製造原価から割り出せばいいというものではない。メディアである以上、かならず適正価格というのは消費の側から逆算したかたちで規定される側面を持たざるを得ない。いくら本が文化的な商品であるといっても、商品であることに変わりはないのだ。かつて、350円で出していた自分たちの雑誌が380円に値上げしたときに、どのくらい反発を買ったかを覚えている僕としては、数百円でふつうに買えた本が、1万円にもなってしまうような今のオンデマンド出版の状況を、絶対に許容するわけにはいかない。なにかが、根本的におかしいのだ。新潮社は、それをわかっていてやっているのだろうか。わかっていてやっているにせよ、わかっていないにせよ、どちらにしてもかなりヤバイ状況に思えるのだが。12月7日(木)
日記のはずが月記になって、それがさらに隔月記になってしまったことをまずはお詫びします。本業が忙しく、手が回りませんでした。
その間に何をやっていたかというと、まずは単行本『人はなぜ、本を読まなくなったのか?』というのを編集していた。オンライン版『本とコンピュータ』上の議論に加え、橋本治や保坂和志の読書論を追加。それで1300円なのでお買い得です。先月末に出たので、いまなら書店で手に入る。高橋源一郎が『週刊朝日』の今の号で書評してくれてます。なかなか、いい評でした。
もうひとつは、展覧会の準備。いま、銀座のGGGギャラリーで行われている「書物変容・アジアの時空」という展覧会のためのウェブサイトをつくっていた。これも、おとといでできあがり、現在公開中です。会場もなかなか面白いけれど、ウェブだけ見ても楽しめると思います。ぜひ、ごらんになってください。
とまあ、宣伝はこのくらいにして、最近の本の話題。じつは、さいきん目を少し痛めて、読書量を減らしている。そのせいもあって、新刊よりも、古本を読んでいる。くわえて、最近出たいくつかの個人全集やコレクションには、食指がうごいている。そのなかでもベストは、国書刊行会から出ている野坂昭如コレクション。これ、いいですねえ。野坂の旧刊は、けっこういまは手に入りにくいし、この人の良さって、いまの若い人が読んだらまた、新しい発見があるのでは。装丁もすごくカッコイイし。もうひとつは、新潮社の新しい『三島由紀夫全集』。これも、柿色の装丁が豪華で、すごくいい。完結するのが2004年、という気の長さもいいし、全部買った人はCD−ROMがおまけで付く、というのも今風。このCD−ROMは、できれば別売りで購入できるようにしてほしいところだ。さらに、筑摩書房からは鶴見俊輔集の続編も出始めた。こういう、息の長い出版企画にはがんばって欲しい、と心から思う。
とはいえ、全集ならなんでもいいのか、というとそうでもない。ちょっと残念だったのが、角川の『中原中也全集』。二冊分冊、というのは、いいようで、あんまりよくない。装丁も、あまり中也っぽくない気がする。すごく残念なのは筑摩の『稲垣足穂全集』。クラフトエヴィング商会には、ちょっと荷がおもかったんじゃないでしょうか。ああいうレトロモダン、といった感じのありがちな俗流の足穂解釈ではなくて、もっと深いところから、20世紀のすがたをかなり正確に予見していた生粋のモダニスト、足穂の新しい解釈を出して欲しかったんだけれど。
いずれにしても、世紀の終わり、千年紀の終わりに、さまざまな全集が出るのはうれしいことだ。でも、吉本ばななや村上龍までが、コレクションとして出直さないとならないのは、ちょっと悲しい。翻訳物でも、出して欲しいものがある。たとえば、SFでいうとスタージョン全集、なんてのは、どうですかね。洋書で買ったんだけど、やっぱり日本語で読みたいもの。早川さん、いかがでしょうか。10月3日(水)
電子文庫パブリで購入したドットブックのダウンロード不調について、親切なアドバイスを二人からいただいた。やはり、ことなるバージョンのT-Timeが混在しているのはあまり具合が良くないようだ。「思い切って古いバージョンのは捨ててしまいなさい」というベテランユーザーの方たちの助言に従うことにした。「パブリッシャーズキット」のほうも、新しいバージョンにしてもらえる方法があるらしい。これで一安心。多村さん、仲さん、ありがとうございました。
それから、申し遅れたけれど、前回の日記のアップと同時に、「書評パンチ!」全体の構成を少し見直して、書評記事を増やすことにした。とりあえず、僕が自分の個人サイトで公開していた書評の原稿を、《編集長の独断テーマ書評》として転載。これは、幻冬舎から発行されている『コンポジット』という隔月の雑誌で連載しているもので、最新号が出た時点で、一つ前の号の原稿をアップする予定。とりあえず、過去二年分はすべて載せたので、しばらくはこれでお楽しみいただければ幸いだ。もちろん、オンラインの書き下ろし書評も、これからどんどん増やすつもり。乞うご期待。
というのも、「書評パンチ!」を創刊するときに、仮想的なライバルと考えていた「本の雑誌」が、「ウェブ本の雑誌」というウェブサイトをはじめた。いまのところ、あまり大したことはないが、こちらもうかうかしてはいられない。それと、知り合いの橘川幸夫さんがやっている「Review-Japan」がどんどんすごくなっているのだ。ある意味で、ぼくらの考えていたことを、先にやられてしまった感もある。でも、「パンチ!」は、一般の読者の感想文のようなものよりも、ものすごく変な書評とか、その逆に、ものすごく真っ当な“ストロング・スタイル”の書評などを、いろいろ試してみたい。いろいろ試行錯誤をしてみるつもりなので、気長におつき合いいただければ幸いだ。10月1日(日)
前回も書いたように、電子文庫パブリというのが先月開店した。新潮社、角川書店、中央公論新社、文芸春秋といった錚々たる出版社が共同で、電子書籍をインターネット上で販売するというもの。これまで、光文社など一部の出版社が行っていた試みを、出版社の枠を超えてすすめていこうというものだ。さっそく、開店と同時に、じっさいに僕も買ってみた。新潮社のラインナップの中に、福永武彦が「加田玲太郎」の名前で書いた、推理小説の作品をあつめた、「加田玲太郎全集」というのがあったからだ。この本、じつはずっと探していたのだけれど、古本屋でみかけることもなく、あきらめていたのだった。もともと新潮文庫にはいっていたものが、ながらく絶版状態になっていたものらしい。それが、600円で電子書籍として売られている。安い!、と思い、早速ダウンロードした。書籍の形式はT-Time だから、使い慣れている。紙の本で読みたいけれど、まずは電子書籍で試してみよう、と思ったのだった。
ところが、何度ダウンロードを試しても、うまく落とせない。マックでもPCでも、ネットスケープでもエクスプローラでも、だめなのだ。機械を変えてもだめ。ちょっとノイローゼ気味になってしまった。なにせ、ずっと読みたかった本が目の前にあるのに、(そして、お金の決済も済んでしまっているのに)読めないのだ。このフラストレーションの大きさったらない。とにかく、長年読みたくて古本屋を探し回っていた本だ。こうなれば、ままよ、オンデマンド・サービスを申し込んで、紙の本で読もう!、と決断するまでに、一晩しかかからなかった。新潮社の場合、電子書籍として売られている本を、一部からでも印刷・製本して、売ってくれる。とにかく、読みたい。電子書籍版がダウンロードできない原因はサポートに相談するとして、紙の本を押さえておこう、と思った。オンデマンド印刷で買うと、「加田玲太郎全集」は、とたんに4000円に値段が跳ね上がる。これに、送料、消費税をのせると、なんと4600円。古書価でも、ここまでは高くない。でも、ここまできたらしかたがない。注文をしたら、一週間で届いた。
問題の、ダウンロードできない件については、後日、他の人のマシンを借りて試したら、なんなくできた。そうなると、僕の環境のほうに問題があるということになる。僕のもっているすべてのマシンには、ボイジャーの「T-Time」のパブリッシャーズ・キットが入っている。どうも、これが「T-Time」の最新版とぶつかって、ダウンロードがうまくできなかったようなのだ。異なるバージョンの「T-Time」を共存させないで下さい、とサポートの方からはいわれたが、僕の手元にあるのは、電子本作成用の「T-Time」であって、たんなるブラウザではない。最新版の「T-Time」をブラウズ専用のために入れることで、電子本の作成環境を消してしまうわけにはいかないのだ。なんだか、昔からの顧客を切り捨てて、新規の顧客を得ようとしているようで、ボイジャーには不信感が残った。
もう一つは、価格の問題。「加田玲太郎全集」は、文庫で出ていたとき、おそらく数百円だっただろう。電子書籍になったときの値段の600円は、その意味で、まあ妥当だろう。しかし、オンデマンドで復刻したときの値段が、4600円となるのはどうか。いくらなんでも、ぼくくらいに酔狂な客でなければ、こんな値段で買いはしないだろう。そしてもし、電子書籍の売れ行きがよく、新潮文庫が「加田玲太郎全集」をふたたびラインナップにいれる判断をするとしたら、そのときの値段は、高くても800円くらいだろう。つまり、本の値段というのを、どのように考えたらいいのか、わからなくなってきたのだ。4600円以上の値段で、「加田玲太郎全集」が古書店で取り引きされているならいざ知らず、絶版状態とはいえ、たかが文庫がそこまでとは思えない。そうなると、この値付けの根拠そのものがあやしくなってくる。電子書籍にも、オンデマンド本にも、なんとなくだまされたような気分だけがのこった。やはり、オークションとか古本の検索のほうで、探すべきだった、と今は反省してる。9月3日(木)
「オンライン書店=メディア」論、というのを平凡社の「デジタル月刊百科」で書くつもり、と予告したけど、結局違うことを書いてしまったので、ここで書くことにする(「デジタル月刊百科」のほうでは、ブックオフのオンライン書店版、eBOOKOFFについて書いたので、よかったらそちらも読んで下さい)。オンライン書店がメディアである、というのはどういうことか。簡単なことで、そもそもウェブというのはメディアなのである。メディアを通してものを売っているから、それは「オンライン商店」でもありうるのだけれど、本質はメディアである。そして、そのせいで、「商店」がもっていた別種のメディア性までが、ふたたび露わになりはじめているのが現在なのだと思う。
もう少し、わかりやすくいうと、僕は今、ものすごく「書店」がやりたくなってきた。現実の書店があまりにもひどいから、というだけでなく、書店というのがものを売るビジネスであるというよりも、本を通してなにかを伝えるメディアでもある、ということが、いわゆる「オンライン書店」という現象を通して、ますます明らかになってきたからだ。
本の世界ではあまりお目にかからなかったが、好きなお店、というのは子供の頃からいくつもあって、若いときにはそれはレコード屋さんだった。あるいは、喫茶店だった。そして、誰もが思うことだけれど、「本やレコードや洋服が売っていて、しかもカフェでもあるような店をやりたい」と思ったものだ。スタイル・カウンシルのセカンドアルバム、「アワ・フェイバリット・ショップ」のジャケットはまさにそれだったし、日本でそれを実現したもののひとつが、ヴィレッジ・ヴァンガードだった。
むかし、青山の骨董通りにパイドパイパーハウスという輸入レコード屋さんがあって、とても好きだった。近くに島田洋書という洋書店もあって、バイトで手に入れたお金はだいたいそこで使ってしまったのだが、これまでは輸入レコードや洋書を売るか、そうでなければ中古のレコードや本を売るいがいに、個性的な店、ようするにメディアでもあるような店を営むことはできなかった。だから、日本で、雰囲気のある個性的な書店をさがそうと思ったら、洋書屋か古本屋にいくしかなかったのだ。変な話だけど、本当にそう。
でも、再販制度の見直しはもうすぐそこまできているし、洋書や古書の仕入れや販売は、それをまたずにどんどんオンライン化されている。もし、再販が見直されなかったら、古書と洋書だけでも、魅力的な書店は経営できる、というめどがついてきたのだ。それにウェブサイトをからませたら、雑誌の発行もできるし、新聞だってできる。電子本を刊行してもいいから、出版社にだってなれる。「モノを売る」という商売の基本を押さえることで、メディアとしての役割はあとからついてくる。産業資本主義ではなく、商業資本主義の段階まで一歩後退することで、ゆたかな仕事をとりもどすことができるのでは……というのは理想論にしても、なんだかそのきっかけだけはつかめる気がするのだ。
それにひきかえ、先週発表された文庫8社(講談社、光文社、新潮社、文芸春秋、中央公論新社、徳間書店、集英社、角川書店)による「電子文庫パブリ」を見ていると、どうも出版社が電子出版に対して、本気でやる気があるように思えない。出版社というのは、そもそも「書店」なのだ。なのに、魅力的な商品をつくることも、商品を魅力的に見せることも、まったく考えていない。ただただ賞味期限の過ぎた絶版寸前の本を、アリバイづくりのように電子化してお茶を濁すだけ。もう、古い出版社にはなにも期待できない、と断言してもいい。こんな出版界には背をむけて、これまでの出版業界に染まっていない他の業界から「本屋」をやりたい、と思う人が増えても当然だし、もしかしたら、そうした「本屋」のなかから、二十一世紀の「出版社」は生まれてくるのかもしれない。8月10日(木)
オンライン書店のbk1のサイトがだんだん面白くなってきた。まだまだ雑然としているけれど、とにかく大量の本に関する原稿が読める。書評だけでなく、感想や、作り手のコメント、といった、本の周囲で発生するさまざまな声が、「オンライン書店」という空間の中でざわざわと聞こえるというのは面白い。だって、じっさいの本屋さんで、誰かにある本を薦められたり、著者がなにかしゃべっている、なんてことはまず起こらない。でも、オンライン書店ならそういうことが、いとも当然のように起こってしまう。まるで魔法みたいだ。オンライン書店がある種のメディアであるというのはそういうことで、そのことに自覚的なオンライン「書店」だけが、成功するだろう、と僕は予言する。
もうひとつ。もしオンライン書店がある種のメディアだとしたら、僕らはそれをどのように使えるか。一つの使い方は、「投稿雑誌」として使う、というやり方だ。このことについては、もう少し掘り下げて、平凡社のオンライン雑誌、「デジタル月刊百科」でやっている連載の中で考えようと思うので、よかったらそちらを読んでください。7月16日(日)
アマゾン・コムからきのうメールが届いた。創立5周年を記念して、「初期からのユーザー」に感謝の手紙を送ります、ということだそうだ。「五年前、まだほとんどの人がアマゾン・コムの名前さえ知らない頃、あなたは当サイトに来店してくださいました」。へえ、もう5年前になるのか、と、ちょっとした感慨にふけりたくなる。インターネットの本格的な普及がはじまったのが、やはり5年前。僕らの暮らしが、ここまでネットと密接に結びついたものになるとは、予想はしたけれど、した以上だった。
問題は、その変化が、おもったよりもビジネス主導だったことだ。ネットが普及し始めたとき、この新しいメディアでは、個人の力が企業や国の力と互角か、場合によっては対等以上の力を持ちうるんじゃないか、と直感した。その思いはいまも変わらないけれど、予想した以上だったのは、ビジネスの世界がネットをとりこむスピードの速さだった。でも、オンライン書店の迷走ぶりや、出版社の(こればかりは信じられないくらいの)対応の遅さをみるにつけ、まだまだ、日本では個人がやるべき余地、できる領域が残っているように思える。アマゾン・コムからの手紙じたいは、上手なカスタマー・サービスにすぎないけれど、「5年前のネット」を思い出させくれたことはありがたかった。このページを読んでくれているみなさんは、5年前、ネットになにを夢見ていただろうか。7月2日(日)
先週、BOL.COMの日本サイトがオープンした。来週はBK1も正式オープンする。インターネットと本の世界はまたあわただしくなってきた。BOLは開店サービスで送料が150円というので、さっそく何冊か注文してみた。翌日、アマゾン・コムふうの簡素なパッケージで荷物が届き、なかなかやるではないか、と思ったのもつかのま。抜き打ちオープンを急いだせいか、かなり問題があることがわかった。まず、在庫の確認がいい加減。24-48時間で出荷、とある本のなかにも、かなりの絶版本が混じっている。開店当日に注文した4冊のうち、3冊が結局品切れで、しかもその連絡がくるのがひどく遅い。こっちも、在庫があるとは思えないのにリストに載っている本ををわざわざ選んだのだから人が悪いのだけれど、その言い訳に、
「お客様からのご注文が殺到したため、システムが不安定な状態となり、お届け時期などホームページでのご案内が、一部誤ったものとなっております」
なんて言うもんだから、ちょっと頭にきてしまった。 「システムの不安定」と、「在庫確認がいいかげん」であることは無関係だろう。こういう場当たり的な対応をしていると、ひどいしっぺ返しに会うよ、と言っておこう。
まあ書誌データベースの不備はここだけの問題ではなくて、日本のオンライン書店全体の問題だから責めるのは酷としても、もう少し丁寧な対応はできるはずだ。「なんでもできます、便利です」などと思わせないで、今できることの範囲で、きちんと本を売るべきだろう。オンライン書店を使うのは、新刊書を買う人ばかりではない。街の書店では手に入りにくい既刊書をさがしてやってくる人だっているのだ。そのあたりをきちんとフォローしないと、アマゾン・コムの足下にも及ばないよ。
もう一つ気になったのは、ウェブサイトの誤植だ。たとえば、人文書のコーナーに行くといきなり「東大寺象文化論/宮台真司ポップ現代思想 」とある。リンク先に飛んで、ようやくこれが「東大・表象文化論/宮台真司・ポップ・現代思想」の棚だとわかるのだが、いまだに今日現在、人文書のコーナーは「東大寺・象・文化論」となったままだ。書店でポップの字を間違えるのとは違って、日本中に(いや、世界中に)恥をさらすことになるのだから、早めに直した方がいいと思う。
それに、「東大表象文化論/宮台真司ポップ現代思想」というのが意味不明であることにはかわりがない。そもそも、人文書の棚を「東大表象文化論」と「宮台真司」だけに代表させる本屋がどこにあるだろうか。ジャンルを網羅的にディレクトリ化するのではなく、いまこれが売れ筋、というものを特集テーマとして出していこうということなのだろうが、それにしてもレベルが低すぎる。もし、こういうやり方をするなら、表象文化関係の本を何十冊か並べて、しかも相互の関係がしっかりわかるようにリンクを張り合うべきだろう。また、宮台真司を特集するなら、すくなくとも彼の著書はすべて並べるべきだ。ところが、これらの本のどれ一つとして、「さらに詳しく…」というボタンを押しても、まったく「詳しい」情報が得られない。わざわざ「一押しで売ろう」とする本なら、せめて目次や著者紹介、できればきちんとした書評が一本くらいは入れてあると期待したのだけれど、まったくなにもなし。それに、宮台真司の本にいたっては、二冊しかないうちの一冊はすでに「在庫なし」と表示されている。なんなんだ、これは。とにかく、中途半端というか、本来なら開店できるような有様ではない。まさにブザマというべきだろう。
BOLは日本にさきだって、アメリカ(ご存じバーンズ&ノーブル)だけでなく、イギリス、ドイツ、フランス、オランダ、スペイン、香港、マレーシアなどでサイトを開いており、さらにイタリア、北欧三国でもオープンを予定している。これらと比較すれば、日本の書店の世界的レベル、さらには国の知的レベルを問われれてしまうのだから、オンライン書店をやっている人たちにはそのあたり、肝に銘じて欲しい。来週のBK1のオープンをまって、さらにこの問題は考えてみたい。6月17日(土)
いくつかの出版社あてに、書評.comというところから「2000年4月以降に刊行された本を全点、できれば三冊ずつ提供して欲しい」「有料で企業広告も掲載」「正式放送後の書評掲載は有料」さらには「日本書評大賞を選考する」などといった内容のファクスがいきなり送られてきたらしい。しかも、最後には「書評.comはビジネスモデル申請済みです」とある。どういう組織か、どういう企業なのか、まったくわからない。ただ、書評選考委員会というのだけは組織されているようで、某大学学長の数学者、元雑誌編集長の女性ジャーナリスト、都市銀行の代表取締役などが名を連ねている。ファクスを見ただけでは、うさんくさい、としかいいようがない。
書評をオンラインで蓄積していこう、という動きは、すでに「BK1」(まえにここに書いたブックワンが改称)のほか、今年の夏に日本で立ち上がる予定の巨大オンライン書店が独自にすすめているようだ。アマゾン・コムも、ついに日本に上陸するらしいから、アメリカの本家アマゾンのように、書評を書籍購入に結びつけようというモデルは誰もが考えていておかしくないし、そこにビジネス的要素が入ってくること自体は、ある意味ではしかたがないことだろう。
にしてもだ。「日本書評大賞」というセンスの古さはともかくとして、この書評.comというサイトを運営しようとしている人たちは結局、本の文化もインターネットの文化も、どっちもよくわかってないように思う。出版社に対して、新刊書籍全点を3冊づつ提供しろ、というのがまず驚きだし、それに加えて「有料で書評を載せてやる」というのは、書評を広告かなにかと勘違いしているとしか思えない。「日本書評大賞」、という偉そうな肩書きで釣っておいて、結局は「ビジネスモデル」というのだから語るに落ちる。ようするに、書評というのはその程度のものであると、とことんまでなめられているのだ。
ちょうどうまいタイミングで『文學界』の7月号に坪内祐三が「書評論」という文章を書いている。かつて書評がどのようなものであったのか、を知ることができる点で非常に面白い原稿だからぜひお読みいただきたいのだが、そのなかから一部だけ引用する。孫引きになるが、昭和二十五年に朝日新聞に掲載された浦松佐美太郎の「書評論」を引用しつつ、坪内氏はこう書いている。(<>が浦松氏論文の引用。地の文は坪内氏。)
書き出しがショッキングだ。/<書評はジャーナリズムの捨て子である。ときどきは思い出したように、あっちこっちで拾われて、育てられたこともあるが、すぐに飽きられて、また捨てられている。ひとり立ちになって、歩けるようになるまで、養い育てられたことない、可哀そうな捨て子である>/なぜ書評がジャーナリズムのなかでないがしろにされていたのか。浦松はその理由を、たいていの書評が「著者に向かってものをいっている書き方であった」点に置く。/<言い換えてみれば、一冊の本を中心にして、二人の専門家があいさつを交わしているようなものである。これでは肝心の読者が、まるで無視されたことになる。読者にとって、こんな書評が面 白かろうはずがない>
浦松氏は、『朝日評論』誌で批評性の高い書評を掲載していた書評欄の同人であり、なかでも中心的な人物だったに違いないと坪内氏は書いている。戦後書評文化の隆盛と崩壊にかんしては、論文の全文を参照していただきたいが、間違いなく言えるのは、いまの新聞雑誌書評の多くも、あいかわらず<二人の専門家があいさつを交わしているようなもの>であるということだ。あるいは、書評者が本をだしにエッセイを書いているようなものであることが多い。いずれにしても、きちんとある本を評価し、あるいはレビューしたものにはなっていない。
いまのオンライン書評の隆盛は、ひとつには既存の紙メディアに乗っている書評へのアンチテーゼでもあるだろうけれど、それらは「きちんとしたレビュー」というものではなく、「本を読んでどう感じたか」という読書感想がほとんどだ。感想が悪いというのではないが、そうした文章だけで本を語りきることはできないし、ましてや評価することはできない。そもそも、「書評」という言葉の概念はかなりあいまいなのだ。それは読書感想文なのか、批評なのか、欧米風の「レビュー」なのか。それとも、新手の広告の一種なのか。こうした書評のもつさまざまな側面とオンライン書店の問題についても、ひきつづき考えてみたいが、きょうはとりあえずここまでにする。6月4日(日)
三週間、間があいてしまった。更新してませんねえ、というメールをいただいたので慌ててこうして書いてます。読んでくださっている人がいるようでうれしい限りなり。
またまた本業の宣伝を少し。オンライン版「本とコンピュータ」で先月から100議論その2「人はなぜ本を読まなくなったのか?」というオンライン討論をはじめたところ、ずいぶんたくさんの投書が編集部に寄せられた。「読書離れ」「活字離れ」の問題を論じると、日本人はなんだか心の琴線を刺激されるみたいで、面白い現象だ。 そこでの議論にはここではふれないので、興味のある方はぜひ上のURLにアクセスしていただきたい。
ひとつだけ紹介したいエピソードは、投書をくれた方の多くが、「人があまり本をよまなくなった、とは思えない」という、かなりストレートな、設問自体への問いをくれたことだ。もちろん、「人はなぜ〜」という問いじたいは作為的なもので、きちんとした統計データにもとづくものというよりは、出版界のビジネスの不振という現実から導かれたものだ。ただし、各種世論調査の結果は、中高生から大学生までの層があきらかに読書から離れている傾向を示しているので、この問いかけもたんなるフックではない。
ところで、話は少しずれるけれど、若い世代の読書離れの問題と関連して、「サブカルチャーと読書」というテーマは成立するのではないかと思うのだ。「人は本を読まなくなった」と嘆かれるときの読書というのは、おそらく、むかしながらの教養書、人生修養のための「良書」が読まれなくなったことを指している、と思う。その一方で、「いやそんなことはない、いまだって人はたくさん本を読んでいる」と反論が出てくるとき、それはいわゆる「サブカルチャー」的な領域の本を指していると思うのだ。
ここでいう「サブカルチャー」というのは、アニメとかSFとかのことだけではない。平安時代には漢籍以外の本、つまりひらがなで書かれた女手の物語などはサブカルチャーと見なされていたのだし、それを逆手にとって紀貫之は「おとこもすなる日記なるものを女もしてみんとて」などというまどろっこしい手続きをへて、「サブカルチャー文学」を書かなくてはならなかったのだし、明治時代に夏目漱石が「吾輩は猫である」を書いたときだって、どこまで漱石が「文学」を意識していたかわからない。一種の「高級落語」を書いてやろうと思っていたというフシだってあるのだ。
自分自身をふりかえってみても、本を意識的に読むようになったきっかけは、角川文庫の登場だった。ほかのところでも書いたことがあるけれど、角川文庫がああいうふうに変わらなかったら、僕の本の読み始めはずいぶん遅れたか、少なくともかなり違ったものになっていたはずだ。僕が最初に自分のお小遣いで買った本は、筒井康隆の『にぎやかな未来』という短編集で、いわゆるショートショート集だった。そのあと病みつきになって角川文庫の筒井作品をぜんぶ読破し、つづいて平井和正や小松左京、眉村卓、豊田有恒、半村良といった角川文庫のSF作品群を片っ端から読んでいった。まるで熱病にうかされたみたいに、半年くらいでこれらの本を全部読みおえてしまったとき、僕は「読書」という世界にまちがいなく片足をつっこんだんだと思う。
両足ではなくて、片足だと思うのは、そこには「教養」も「文学」も「人生修養」もなかったからだ。じつは、生まれて最初に買った本は『にぎやかな未来』だけでなくて、もう一冊、トルストイの『人生論』(だったとおもう)というのも同時に買ったのだった。つまり、どこかで、こういう「人生修養」の本を読まなくてはいけない、という強迫観念があったこともたしかなのだ。でも、二冊の書き出しを読み比べて、片方は熱病へと僕を導き、もう一冊はどこへも僕を導かなかった。
じつはこういう風に本を読み始めた人はとても多いようで、いま30才代なかばくらいの人と話すと、同じような経験をしている。ここで思い出すのは、「ジュブナイル」というジャンルが、当時はあったということだ。いわゆる子どもむけの本を読み終えた、10代のはじめくらいの子どもが出会うべき、中間段階の本のことだろう。あるいは「ヤングアダルト」というジャンルもあった。これは「ジュブナイル」を卒業したあとの10代後半の少年が読むための本だ。最近の中高生が本を読まなくなってきたとしたら、こういう、大人の本の手前にある階段のような本の厚みが、いま、急速に失われているのかもしれない。あるいは、いまの若い世代のリアリティを、こうした本がとらえそこなっているのかもしれない。
サブカルチャーの本は、ある意味で、これまで「ジュブナイル」や「ヤングアダルト」の本の役割をはたしてきた。でも、大人になってからも、「ジュブナイル」や「ヤングアダルト」しか読まない世代が増えてきていることもたしかで、それがいいことかどうかは別として、だとすれば「人はなぜ(まともな)本を読まなくなったのか?」という問いにも一部の理はあるということになる。
もちろん、「まともな本」ってなんだよ、という話をしはじめるときりがないけど、ようするに大人向けの本と言うことだ。これは「大人とは何か」という問題に広がってしまうので、とりあえず今日はここでやめておくことにする。5月12日(金)
前にも書いたように、いま東京の下北沢という街に住んでいる。ここは東京でもわりと文化的な環境が整っている街で、ライブハウスや劇場はいくつかあるし、小さな自主映画上映館もできる、ようするに昔風のサブカルチャーが残っている街なのだ。ところが、こと本屋となると、事情がかわってくる。前にこの日記で書いたように、古書店はいくつか個性的なものがあるのだが、新刊書店となるといきなり貧弱になるのだ。
いちばん大きな本屋はいわゆる“駅前書店”で、ここでは文庫本でさえごくかぎられたものしか手に入らない。単行本となると、ビジネス書と女性向けのエッセイとミステリだけ。とにかく話にならないのだ。下北沢にはこのほか小さな個人営業の店が三つあって、そのうちのひとつはとても良い店だったのだけれど、ついこないだ潰れてしまった。あとは、雑貨屋と一体になった店構えで知られるビレッジ・バンガードと、同人誌をまめにそろえているフィクショネス、それから「本も」売っている喫茶店がある。ちょっと変わった本屋はいろいろあるけど、とにかくごくふつうのまともな本屋はもう、一つもなくなってしまったのだ。
つぶれてしまった本屋は、文庫の品揃えがきちんとしていて、ちくま文庫や講談社学術文庫、福武文庫や河出文庫もほとんどがそろっていた。たとえば、山上たつひこの「光る風」とか、花田清輝の「復興期の精神」など、あちこち探してもみつからなかった文庫が、なんのことはない、地元のコーナーショップ風小書店に置いてある、という経験をなんどかした。渋谷のブックファーストなんか、いくら規模がでかくたって、こうした本が文庫の棚から抜けていても平気で補充されてないままなのだからしかたない。
でも、こういうまともな良心的な店ほど先に潰れていくのだ。そこの店は、ご主人のほかは学生バイトひとりでやっていた。人件費だって家賃だって、そんなにかかってないはずなのに、その程度の店が支えられないということは、ようするに小規模書店という商売はもう、日本では(すくなくとも東京では)無理ということなのかもしれない。下北沢の雑貨屋で本も売っている変な店が家の近くにあって、そこで鶴見俊輔とか平岡正明のあまりふつうの本屋ではお目にかかれなくなった古い本をみつけて買ったときに店の主人に聞いたら、やっぱりこのところ本は全く売れないのだと言う。
本は、ほんとに、いま全然売れないのだ。本が売れないのにはいろんな理由があるだろうけど、ようするに今の若い人は「本を読む」という技術を習得することなく大人になったのだと思う。自転車に乗れなかったり、泳げなかったりするのとおなじで、一種の肉体的なレッスンとして、読書という技術をどこでも習わなかったのだろう。そうとしか思えない。下北沢でいちばん良い本屋だった小書店の後は、例の光通信系のろくでもない携帯電話屋になった。でも、もう携帯電話屋ですら客がはいっていない。いったい、これから街の本屋はどうなっていくんだろう。 本だけを売る店は、もしかしたら、もう成り立たないのかもしれない。喫茶店や雑貨屋として生計をたてつつ、そこで主義主張のある本をすこしだけ売る、というやりかたが、これから一般的になっていくのかもしれない。いま下北沢の街でおきていることは、これから先、もっとほかの街でも起こることなのだと思う。5月2日(火)
マンガ作家たちが集まって、新古書店とマンガ喫茶がマンガ家の著作権を侵害している、という問題などを議論するために「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」という団体を設立したらしい。「文化通信」の報道では、「約80人のマンガ家、マンガ原作者、プロダクション関係者が参加を表明。今後、著作権法の改正、著作権意識の啓蒙などに取り組んでいく」となっている。
たしかに、このところのマンガ喫茶の増殖ぶりはものすごい。いったい、どこにそんなにマンガの読者がいたのだろうかと思うくらい、街のあちらこちらにある。マンガ喫茶はいってみればカラオケ・ボックスと有料図書館のアイノコのようなものだ。マンガの売り上げの減少の原因がマンガ喫茶にあるかどうかは別として、ここで読まれたマンガに関しては、まったく著者にロイヤルティが払われていないことはたしかだ。
新古書店も、いってみれば古本屋と貸本屋のアイノコのような存在だ。定価の6割程度で売られている古本マンガを読み終わったあとで同じ店に売りに行くと、定価の1割程度で買ってくれる。つまり、最初から定価の半額でマンガ本を借りたのと同じことになるわけだ。むかし、パソコンゲームを貸し出すのが違法だった頃、手続き上は販売したことにしておいて、返却時にふたたび買い上げるというやりかたで、事実上のレンタルをやっていた店があったけど、新古書店はそういう意味では新手の貸本屋ともいえる。ようするに、マンガ家たちは、こうした新手の古本マンガ貸本屋にたいして、いらだっているわけだ。
こうした貸本屋でマンガが読まれるたびに、カラオケで一曲歌うたびに何百円かを徴収しているJASRACのような、マンガ著作権管理団体にお金が落ちる、という仕組みは、もしかしたら必要なのかもしれない。すくなくとも、マンガ喫茶はなんらかのかたちで使用料を払うべきではないか、とは思う。でも、マンガ新古書店についてはまだ判断を保留したい。僕自身がこうした古書店におおいに世話になっているからでもあるが、大げさに言えば、マンガ新古書店を否定すると言うことは、古書店の存在そのもの、あるいは本の私有そのものを否定する論理にいきつくからだ。はたして、ひとたび読了した本を中古業者に売却することは、コンテンツをつくった著者にたいする「著作権侵害」にあたるのか? あるいは、中古のマンガ本を作家や出版社へのロイヤルティなしに再販売することは、違法行為とすべきなのか? この問題を一般化していくと、とてつもなくおおきな著作権意識の変革が求められることになる。そして、おそらくその先にあるのは、ハリウッド映画的な、コンテンツの権利への何重もの管理だろう。いよいよ、マンガはそこまでふみだす時期にきているのだろうか。いまはまだ何とも言えない。
でも、話をそこで止めてしまってはつまらないように思う。いま出版の世界では、これまでなら本の生態系の周縁部でほそぼそと存在していた「古本屋」「図書館」といった存在が急速にクローズアップされている。逆に言えば、それらが本の生態系全体にとって危険な存在になるほどに、本体が弱まっている、ということなのではないか。もちろん、電子出版の問題もそこにからんでくる。紙に印刷され、製本され、一冊いくらという値段をつけて売られてきた本が、それだけでは出版界を支えられなくなってしまった。こうした事態はまず書籍の世界でおこり、それがさらにマンガの世界に波及した。文庫化・デジタル化の進展により、ただでさえ消費財的な存在であったマンガが、さらにインスタントな消費の対象になっていく面は否めない。
しかし、それをさらに逆にとらえるならば、これまで単なる消費財だったマンガが、ある意味ではストック財としても価値がある、ということが理解されるようになった現れとみなすこともできる。読者はマンガを消費しているだけだが、マンガ文庫やマンガ喫茶といった発想は、マンガがある程度まとまったストックとなったとき、価値が生まれるということでもあるのだから。それになぜか、このところマンガ批評の本が立て続けに出版されている。ひたすら消費するだけだった読者の側でも、マンガへのまなざしが変わりつつあるのではないか。つまり、マンガが、まぎれもなく文化だったことが、いまやっと認識されはじめているのではないだろうか。
マンガ作家たちも、いたずらに被害者意識にこりかたまることなく、文化としてのマンガがどうあるべきか、という観点から議論をして欲しい。それに、揺籃期の日本マンガを育てたのは、ほかならぬ貸本マンガだったのだから。この問題も、今後ひきつづき考えてみたい。4月24日(月)
さらにひきつづいて、「薬と本」について考える。医療というものが病院によって系統だって行われるようになる近代以前にも薬はあったし、教育や啓蒙ということが学校で系統だって行われるようになる以前にも本はあった。さらに、薬が病院以外の場所で大衆的に売られるようになる歴史と、本が教育機関ではなく個人を対象に売られるようになる歴史との間には、なんらかの並行的な関係があるに違いない。
近代以前、近世や中世の本と薬のあり方をきちんと調べてみると面白いだろうけれど、ここでは現代に話をしぼってみる。マツモトキヨシ、という、なんの変哲もないディスカウントのドラッグストアが、なんだかオシャレの代名詞みたいになってしまった歴史を知っている僕には、あれが本屋が行き着く将来の姿のように思える。もし再販制度がなくなったら、本屋の一つの極はまちがいなく、マツモトキヨシ的なものになるだろう。いや、マツモトキヨシが本を売る、ということだって、考えられなくない。
ただ、だからと言って再販制度廃止に反対しているわけではない。いま本が置かれている状況をはっきりさせるために、そういう思考実験が必要だ、と言っているだけだ。では、その対極としてはどんな本屋があり得るか。簡単に言えば、医師の処方箋に応じて薬を出してくれる薬局のような本屋だ。あるいは、薬屋自身が薬に関してきちんと説明できる、漢方薬局のような本屋だ。薬にかんする知識、あるいは処方するための教養。そうしたものがいまの本屋から失われて久しい。だから、それを本屋だけに求めるのではなくて、本を出している出版社や、在野の書評家が分担して担うべきだと思うのだ。
書評までいかなくてもいい。「あの薬は使ってみたけど効かなかった」「この薬はこういう症状にはよく効く」「こういう飲み方はよくない」といった、薬をつかっている側の経験の蓄積がされるだけでもいいのだ。病気が個々人によって千差万別 のように、本を必要とする人の置かれている状況だって、一人一人違う。万病に効く薬などないように、誰にでも役に立つ本なんてないのだ。
ベストセラーというのは、それ自体が流行病のようなものだ。つまり、流行っているものならなんでも欲しい、という病そのものの現れなのだ。だから、これに付ける薬は、罹ってみること、そしてそれに対する抗体、抵抗力をつけることにしかない。流行病に対するワクチンとして、一度は罹ってみるのもいいのかもしれない。でも、問題はその先である。
自分がどんな本を必要としてるかを知るためには、自分を知らなければならない。世の中には、マツモトキヨシ的な薬屋ではゼッタイに癒せないような病がある。同じように、ベストセラーの薄利多売書店では売っていないような本にも、それを切実に必要としている人がいる。問題は、本=薬が手に入りにくいことだけではなく、病というものが存在しないように思われてしまうこと、そのような本を必要とするような人が存在する、ということ自体が、隠蔽されてしまうことにあるのではないか。
本の多様性が脅かされることによって、本を必要とするような多様な欲求がこの世にはあまたあることが、同時に見えなくなってしまう。おそらく、書物がむかえている今の危機の最大の意味は、そういう多様な欲求への想像力が、見えなくなってしまうことにあるのだと思う。つまり、それはとりもなおさず、他者への想像力、ということだ。
4月18日(火)
前回のつづき。橋本治が「中央公論」で連載していたエッセイが単行本『天使のウィンク』としてまとめられた。ほとんど同時に広告批評から『ああでもなく、こうでもなく』も出てるけど、二冊のうち読むべきは『天使のウィンク』のほうだ。というのも、これはタイトルこそ適当だけど、あの名著『浮上せよ、と活字は言う』の続編なのだ(『浮上せよ〜』については書評パンチ!の合評でもとりあげているから参照してほしい)。
活字離れとか、本離れといわれる事態は、ここ数年の少年犯罪事件と無関係ではない。 書評でも書いたけど、橋本治は『浮上せよ〜』で、「何故活字は、新しく生まれて来た新しい意味達に対して、『私たちに分かるように説明しろ』の一言を言わなかったのだろう? 『私には分かる気がある、だから、私たちに分かるように説明しろ』と、どうして言葉によって説明することに未熟であった者達に、言葉によって説明してやらなかったのだろう?」 と書いている。この「活字」を「大人」に、「新しく生まれてきた意味」を「少年」に置き換えれば、この本で橋本治が言っていることの意味がよくわかるはずだ。
少年とはつねに「新しく生まれてきた意味」であり、自分自身でその意味を把握できないからこそ、周りからの言葉が必要な存在でもある。そして、言葉とは、そうした関係を生むからこそ人間の営みの基本なのであって、活字に印刷されているかどうかは、本質的には関係ない。世の知識人が絶句したという「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにも、だから、橋本治は即座に答える。「なぜなら、殺してしまったら、もう人と関係をもつことができなくなってしまうから」。この本は、いま出版に携わる人すべてが読むべき本だと、僕は思う。それから、中央公論社は、いま事実上絶版状態になっている『浮上せよ〜』を即刻文庫化すべし。はっきり言って、このままでは出版社としての見識を疑うよ。
4月12日(水)
今回はちょっと本業の宣伝じみた中身になるけれど、ご容赦を。昨年から「本とコンピュータ」のオンライン版でずっと続けてきた、オンライン書店をめぐる国際討論「100日議論その1 オンライン書店は本の文化を変えるか?」が終了したのを期に、紙の単行本にした。タイトルを少し変えて、『オンライン書店大論争 インターネットか? 街の本屋か?』にした。書店にはもう並んでいるので、よかったら読んでください。定価1000円とお安くなっています。もちろん、同じ中身はウェブでただで読める。オンライン立ち読みしたい人は、「100日議論」を見てください。
「その1」とことわるからには「その2」もあって、本題はこちらなのだ。春から、二回目の国際議論を始めようと思っていて、そのタイトルも仮にだが決まっている――「人はなぜ、本を読まなくなったのか?」。もちろん、読まなくなったわけではない、本をよむ層は増えている、と主張する人もいるし、そもそも「本」とは何か、「読む」とはどういうことか、という概念規定が人によって違うから、議論は沸騰することだろう。沸騰してほしいので、みなさんもぜひ参加してください。連休明けにはスタートします。
最新号の『季刊本コ』でも、そのあたりの前哨戦をしたくて、橋本治さんに原稿をお願いした。「読書に未来はあるか?」という題で頼んだら、「産業となった出版に未来を発見してもしょうがない」という原稿で切り返された。重要な指摘がされているので、出版に関わる人にはぜひ読んで欲しいのだが、要するに、ベストセラーを前提とした出版“産業”の時代は20世紀で終わりである、ということを彼は指摘している。そして、本はいずれ富山の薬売りと同じように、必要なものを必要な分だけつくって、必要な人に届けるようなものになる(そういうものに戻る)と言っている。
富山の薬売りを言い換えると、オンデマンド出版である。ちょっと違うかもしれないけど、「必要なものを必要なだけつくる(売る)」という点では同じだ。薬というのはおそらく製造原価によって価格が決まるのではなく、有用性で価格が決まるという特異な商品だったはずだ。極端な流行病でもないかぎり、世の中の人が一斉に同じ病気にかかることはないけれど、そのかわり一定の確率で、病に苦しむ人はいて、そういう人がどこにいるかわからないから、富山の薬売りは日本中を歩いて回ってマーケティングをしたのだ。今の時代はさいわいインターネットがあるから、富山の薬売りみたいに日本中を歩いて回らなくても、顧客管理はできる。薬の製造ラインとくらべてもそんなに巨大ではない生産手段として、オンデマンド印刷機がある。
橋本治は、本の作り手が「読者がいなくなるのでは」と心配するのは、薬売りが「病人がいなくなってしまうのではないか」と心配するようなものだ、と言っている。しかし、出版“産業”を前提としてないような書き手はどこにいるのか。これはこれで大問題だろう。いずれにしても、出版“産業”の従業員としての編集者には、もうそんなに需要がなくなるのは間違いない。
最近読んだなにかの本(かウェブの記事)に、「失業問題というのは、ある産業に従事する人口が減ってしまうという事態を指すのではなく、ある産業が、まるごと消失してしまう、という事態をさす問題なのだ」ということが書いてあった。編集者に失業問題が発生するのはそんなに遠い未来のことではない、とぼくは思う。でも、世の中に本を必要とする人は必ず残るし、本を必要とする人にたいして本を供給するという仕事も、間違いなく残る。そのとき必要な編集者の姿は、出版“産業”の従業員としての姿と、だいぶ違ったものになることだろう。これはひつじ書房の松本功さんが「ルネッサンスパブリッシャー宣言」で書いていることでもあるけれど、そろそろ現実的な未来として見えてきたように思える。4月3日(月)
冒頭の口上にも書いたけれど、「投げ銭フリーマーケット」にこの日記を出品することにした。インターネットが出版、つまりPublishingのためのメディアになるためには、個人が少額のお金をコンテンツに対して支払えるしくみがゼッタイに必要だ、という確信からはじまった投げ銭ムーブメントには、心から同感している。これまで側面援護しかできなかったけれど、ここにお立ち台を用意してもらった以上、もう少し直接的な貢献をしたい、と思っている。はたしておひねりをいただけるほどの「芸」を見せられるかどうか、まさしく路上に立ってパフォーマンスをするときの緊張感が、書いている側にもしぜんと湧いてくる。そう、この緊張感が欲しかったんだ。そのことがわかっただけでも、大きな収穫だ。ひつじ書房の松本さんはじめ、投げ銭ワークショップでこれまで長いこと尽力してきた人たちに、まずは大きな拍手をおくりたい。パチパチ!3月23日(木)
おととい、新しいオンライン書店「ブック1」の創立が発表された。図書館流通センターと日経新聞、日経BP社らが連合して、新しい会社をつくり、7月には営業を始めるという。(プレスリリースはここ)即日配送などほかのオンライン書店との差別化できるよういろんな工夫をするそうだが、いちばん興味深かったのは、「ブックレビュー社」というオンライン書評専門の会社を同時につくったことだ。つまり、これは「ブック1」に書評を提供するための会社ということだ。日本の場合、オンライン書店といっても値引きができるわけではないから、普通の書店以上に本を探すことが容易でないと、利用者はすでによく知っている本しか買えない。それではまったく意味がないので、本のナビゲーション役として、書評が重要だということになったのだろう。たしかにそれはそうなのだが、いったいこの「ブックレビュー社」の社員はどんな仕事をするのだろう?
うわさでは、もう某大物編集者が原稿依頼を始めているらしいとか、いろいろ話がつたわってくるのだが、オンライン書店が専属の書評供給会社をもつというのは、なんだかちょっと変な感じだ。もちろん、ひつじ書房の松本さんが前に紹介していた、目黒考二さんの夢見た「一日じゅう本を読んでいられて、書評を書くと給料が出る会社」みたいなもの、にはならないだろう。むしろ、書評の権利をあつめて、オンライン書店側に提供する中間業者みたいなものになるのではないか。ところで、そのとき書評の買い付けをする人は、いわゆる編集者、なのだろうか。
編集という仕事のことが、いまよくわからなくなってきている。出版社から離れたところで、編集者という仕事がどこまで可能なのか。これはまったく人ごとではない。3月15日(水)
村上龍のオンデマンド出版「向現」で買った、限定1000部の『共生虫』に、誤植や乱丁があったらしく、送り返してくれれば刷り直したものと交換します、という手紙が、詫び状とともにゼロックスのブックパークから届いた。しかしこうなると、こちらも意地が悪いので、どこが乱丁でどのくらい誤植が多いのか、職業上気になる。どうせ、送り返して戻ってくる頃には、オフセット版の『共生虫』が講談社から出てしまうのだ。それに、ミスプリントのものの方が将来的に価値が上がるのは、切手やコインでも証明済みだし(笑)。
まあそれはともかくとして、このことでわかったのは、こうした流通 主導のオンデマンド出版には、おそらくまともな編集過程が存在しない、ということだ。専属の編集者も、おそらくいないだろう。しかし、それでは「出版」の言葉にあたいしない、と僕は思う。新企画を立てるのではなくて、たんなる「限定販売」や「復刻」だとしても、本づくりの過程に、制作だけでなく編集のプロセスがあるのだということを、どこまでオンデマンド出版をやっているところは意識的なのだろうか。
編集者の不在、というのは、オンデマンド出版だけでなく、これまでにもCD−ROMやウェブなど、あらゆる電子出版で指摘できることだ。電子出版における編集の必要性と、そのことをはっきり主張して対価をとれる編集者がでてこないかぎり、電子出版は絶対に離陸しない、ととりあえず断言しておこう。このことはさらにつきつめて考える。3月9日(木)
何年か前から下北沢に住んでいる。この街は中古のレコード屋さんと古本屋さんが充実していて、本とCDを大量 に買い込む僕のような仕事をしている人間にはまことに都合のいい街だ。古本屋はオーソドックスな昔風のがふたつと、いわゆる新古書店がある。で、そのむかしながらの古本屋のほうには、最近めだって出版されたばかりの新刊がよく並んでいる。ときどき、奥付(出版された日)よりも早く古本屋に並んでいることがあるから、どうもおかしい。
そう思って知り合いの編集者に聞いてみたところによると、出版社が直接流している可能性があるという。つまり、取り次ぎに出すより条件は圧倒的に悪いけれど、とりあえず現金で買い上げてくれる古本屋にある程度の本を流すという商慣行が、本の世界にはあるのだという。なるほど、そうでも考えないと、あれだけの本が刊行間もなく古本屋に並ぶと言うことの理由がわからない。ありがたく、ときどき買わせていただくのだけど、申し訳ないような、なんだかものすごく悪いことをしている気がする。
一方、新古書店のほうは、最近ますます品揃えがよくなってきてる。以前は、幻冬舎や草思社みたいなところから出たベストセラー本が漫然と並んでいて、欲しい本があんまりなかったんだけれど、それが最近がらっと変わった。とにかく、シブイ本、堅い本が増えたのだ。どうもその手の本が売れることに気づいたらしく、高価買い入れ本の対象としてみすず書房、筑摩書房あたりが挙げられている。もちろん、こういうところには出版社から直接声がかかるということはないから、一度読まれた本が売られてくるわけだ。
で、そうなってくると思うのは、これまでみたいに新古書店を悪者扱いするだけでいいのか、ということだ。むしろ、従来の古書店よりドライで、市場のニーズを直接反映している新古書店の方が、商売としてまっとうじゃないか、という気さえする。たとえば下北沢の新古書店も、ブックオフとおなじで、買い入れは一律定価の一割、値付けは半額、ただし一定期間売れないと100円、というやりかたをしている(文庫の場合)。ただし、ある程度の売れ筋の場合は買い取り価格が二割になる。そして、なにがいま「二割」で買い取る対象かを、つねに明示している。これは、ある意味で立派だとおもう。
それにぼくは、これまでいくらさがしても見つからなかったどうしても読みたい本を、この手の新古書店でみつけたことが何度もある。それも、ものすごく安い値段で。どうしてこういうことが何度も起こるかというと、それはこういう新古書店では本がものすごく早く回転しているからだろう。ぼくの読みたい本は、かつて誰かが読みたいと思い、買って読んだ本だ。だから、おなじような趣味やものの考え方をする人間が生きていれば、本は出てくる。そういうことが、新古書店の品揃えをみるだけでよくわかるのだ。
つまり、新古書店は、生きている「読書記録」なのだ。いまぼくらがやろうとしている「バベル」計画は、こういう読書記録を、もっと目に見えるものにして、ウェブ上に実現しようということなんだと思う。2000年3月3日(金)
きょうから「編集長日記」をはじめる。編集長、といっても、なにをしているわけでもないのだけれど、いろんなところで吹聴してしまったのでしかたがない。シイナマコトさんの名前まで出して大いばりで始めたわりに大したことないではないか、といわれるのも癪なので、スーパーエッセイ風とまではいかないけど、こういうコーナーを作ってみた次第。ここでは、書評や本にまつわることで、あまり明確な考えになっていないこともいろいろ書いてみようと思う。
「パンチ!」をはじめてみて思うのは、オンラインで継続的にメディアをつくることの難しさだ。自分のホームページsora tobu kikai web pageもずいぶん更新してないし、本業のオンライン版「本とコンピュータ」 もなかなかうまくいかない。とにかく、紙でメディアをつくるのとはずいぶんちがうのだ。
モチベーションの持続、というか、もう少し正確にいうと、「なんのためにそのメディアがあるのか」という部分が明確でないと、とにかくオンラインのメディアはつづかない。紙のメディアの場合は、できあがったものの手触りとか、物質感があるから、作ること自体を自己目的化できる。でも、オンラインメディアは、作ること自体を自己目的化してもしかたがなくて、なんらかの受け手との関係、反応みたいなものがないと、存在していないのと全く同じことになってしまう。そのあたりが難しいのだけれど、面白いところでもあると思う。
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