| タイトルは「日記」ですが、今年もだいたい月1、2回ペースで続けます。例によって、あまりに更新が遅かったらこちらまで催促をどうぞ。意見・反論・情報提供ももちろん大歓迎。 |
12月2日(火)
図書新聞での「書評特区」四回目(仲俣担当)は今週金曜に発売です。とりあげる本は、
・ジョセフ・メン『ナップスター狂騒曲』(ソフトバンク) 評者は音楽評論家で元HEADZの原雅明さん。
・中村伊知哉『デジタルのおもちゃ箱〜MITメディアラボから見た日本』(NTT出版) 評者はデザイナーの松岡裕典さん。
・前川徹+中野潔『サイバージャーナリズム論』(東京電機大出版局) 評者はジャーナリストの武田徹さん。テーマは「コンピュータ文化の語り方」。それぞれいい原稿です。ちなみにイントロとして僕が書いたコラムは以下のとおり。
私が編集にたずさわっている『季刊・本とコンピュータ』という雑誌は、おおまかにいえば「出版文化」と「コンピュータ文化」の橋渡しをする雑誌である。以前、一年ほど編集に関わった『ワイアード』という雑誌が、コンピュータ技術を社会的に文脈づける(経済的にも政治的にも文化的にも)ことを目指した雑誌だったこともあり、なんとなく「コンピュータ」と「文化」とは、簡単に接合できるような気持ちがしていた。しかし、どうやらそう簡単ではないということが分かってきたのが、インターネットの爆発的普及以降のここ数年なのではないか。
それ以前の、コンピュータを一種の「サブカルチャー」として扱っていればよかった時代は、まだしもいろんな語り口がありえた。個人がコンピュータ・プログラムを書くことがもたらす可能性であれ、モノとしてのコンピュータに対するフェティッシュな思い入れであれ、初期コンピュータ文化を支えた人物たちの「伝説」であれ、それなりに「文化」的な衣装をまとわせて言葉にすることは可能だったのだ。しかし、もはやそうした語り口では届かないくらい、一方ではコンピュータはありふれた光景になってしまい、もう一方では相変わらず、常人には理解しがたい「ブラックボックス」であり続けている。
じつは、今回の「特区」はコンピュータに関するマニュアル本、あるいは入門書の書評でいこうと最初は考えていた。「〜ハンドブック」「〜マニュアル」「〜入門」といったやつである。アメリカのパーソナル・コンピュータ文化の根底にあるのは、このような本によって支えられたDIY主義であり、徹底したマニュアル主義である。これは、職人芸とか成熟といった価値観をよしとする伝統的な社会(あるいはその文化)の対極にある考え方だ。日本でコンピュータが「文化」として語りにくいのも、ひとつにはそのせいだろう。しかし、この企画は最終的に放棄せざるを得なかった。それは語るにたる本が存在しなかったからでもなければ、それを論じうる評者がいなかった、ということでもない。そうした本を書評で論じることの意味をうまく伝えられなかった編者の力量不足である。
今回登場していただいた三人の評者は、それぞれの仕事の現場で早くからコンピュータを利用しており、なおかつ「コンピュータ以前」のアナログ的な身体感覚を失っていない方ばかりだ。安易で楽観主義的な未来予測でもなく、極端な技術批判でもなく、かといってオタク的にテクノロジーの快楽に耽溺するのでもなく、このような仕事の現場からのリアリティとともに「コンピュータ」が語られることが、私たちにとっていちばん必要なことなのではないか。
11月4日(火)
うっかりしていて、図書新聞での「書評特区」三回目(松本功さん担当)の告知が遅れました。11月23日発売号なので、一号過ぎてしまっています。どうしても読みたい方は図書新聞までアクセスしてください。
書目は、
・菅谷明子『未来をつくる図書館 ニューヨークからの報告』(岩波新書)
評者は加藤良平さん(情報ハブ株式会社代表取締役)・吉田つとむ『地方議員のための 支持者をふやすホームページの鉄則』(学陽書房)
評者は富永さとるさん(立教大学21世紀社会デザイン研究科)・興梠寛『希望への力 地球市民社会の「ボランティア学」』(光生館)
評者は川中大輔さん(シチズンシップ共育企画代表)
10月20日(月)
ひさしぶりに書評を追加したので日記も更新します。図書新聞での「書評特区」は松本功さんの担当の回がもうすぐ掲載になります。ぼくの担当回は11月の予定。書目が決まったらここでも告知します。
8月23日(土)
「書評特区」の二回目が昨日発売の号に掲載された。今回の選書は僕が担当した。アメリカと日本の文化的インターフェイスを考える、という切り口で、以下の三冊を選んだ。
・ジェームス・M・バーダマン『ふたつのアメリカ史〜南部人から見た真実のアメリカ』 (東京書籍)
評者は映画評論などで活躍している大場正明さん(http://c-cross.cside2.com/index2.htm)・三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館)
評者は雑誌「nobody」編集者の志賀謙太さん。
・草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』(NTT出版)
評者はアメリカンコミックス研究家の小田切博さん。「特区」のコラム欄として僕と松本さんが交代で書いている「レビュー・ソサイエティ・リミテッド」に書いた文章をここに転載する。
九・一一事件からアフガン空爆を経てイラクとの戦争突入にいたるまでのアメリカ合衆国のようすを外側から見ていて、とても不思議だった。
なにが不思議だったかというと、私たちがふだん身近に接しているさまざまなアメリカ由来の文化――たとえば映画、音楽、ファッション、パーソナルコンピュータ、ファストフード、そのほか知らず知らず無意識のうちに抱えているものを含めればもっと膨大な――から受けるアメリカの印象と、テロの恐怖におびえ、対外的に強硬な態度をとる以外の道を選べなくなっている同じ国とが、どうもうまく一つの像を結ばなかったからだ。
今回書評を書いていただいた小田切博さんにも力を借りて、今年の春に『アメリカンコミックス最前線』(トランスアート刊)という本を編集した。そのときに切実に感じたのは、日本人が受容したと思っている「アメリカ文化」なるものは、はたして本当にアメリカの姿を正確に私たちに伝えているのだろうか、ということだった。
そもそも、対外的に売り込むことが前提で作られている「アメリカ商品」と、アメリカのドメスティックな「文化」との間には、ずいぶんと深い亀裂があるように思う。そして、たぶん私たちはドメスティックなアメリカをほとんどまだ理解していない。だから彼らの感じる「恐怖」の質もよくわからないし、ましてや戦争以外の選択肢を持ちないアメリカの政府に対して、どのような声を挙げればいいのかもわからない。
アメリカの国内的な事情なんか理解しなくてもいい、とうそぶけるならどんなにいいだろう。でも、私たちの文化は、あまりにもこの国と結びついている。結びついているもの同志が、実際は理解しあえていない、なんていうことは人間関係でもよくあるが、理解しあえないにせよ、その事実くらいは直視しないといけないのではないか、と思うのだ。
比較文化という学問ジャンルが、最近はずいぶん流行っているようだ。アカデミズムの領域でそうした試みが増えることは悪いことではない。でも、映画や小説、マンガやアニメ、あるいは音楽といった、アメリカと日本の文化が相互浸食を長い時間をかけてしあってきた、いわばインターフェイスのような領域で、どのような相互作用が起きているのか、あるいはいないのか。そこから立ち上ってくるリアルな言葉をいまはもっと読みたい、と思っている。今回の三冊と三人の評者は、そういう気持ちで選ばせていただいた。
6月28日(土)
「図書新聞」で「書評特区」が始まった。一回目は松本さんの選書で、辻信一の対論集『ピースローソク』、浜田忠久・小野田美都江『インターネットと市民』、Wink『僕には親が別れても愛される権利がある』の三冊をとりあげている。松本さんはコラム「レビュー・ソサイエティ・リミテッド」で、「旧来の人文的な視野が、限定してきた世界を飛び越せるようなレビューをつくりだすことを私は目指したい」と書いている。ぼくも同感だ。
松本さんは具体的に、「事業性と社会性をもったNPOが、学術知と市民知をつなぐ結節点になる。この結節点こそ、人文(ヒューマニティズ)の可能性だ。だから、その分野のレビューを試みる」と書いている。これに答えてぼくがやりたいのは、「非オタク」的なサブカルチャーの知性の再発掘だ。まだうまい言葉を生み出せないのだけれど、「オタク」とは何かと言えば、在野の学術知の零落形態といっていいと思う。アカデミズムの弊害として言われることは、そのままオタク的な知に対してもいえる。サブカルチャーという言葉はなくなってしまってもいっこうにかまわないけれど、「知性」までがななってはこまる。「人文」という「知」には、たぶん学術と市民的実践の両方を行き来する、ダイナミックな動き、俊敏な運動性がもともとはあったのではないか。サブカルチャーが新しい「知性」を生み出すと信じられた20年前には、やはり同じように、ダイナミックな領域横断的な運動が、サブカルチャーと呼ばれた領域にもあったような気がする。
いま、いわゆる「サブカル」本を書評で好意的にとりあげることは、すこしもラジカルなことではない。なぜなら、それはかつての「学術書」のようなものであり、一種の体制的書物になってしまっているからだ。でも、そうではないアプローチがあるはずだと思う。「図書新聞」という場でどこまで可能かわからないけれど、新しい萌芽をさがしてみたいと思う。
6月23日(月)
書評専門紙の「図書新聞」で、ひつじ書房の松本さんと「書評特区」というコーナーを月に一度やることにした。すでに「書評ホームページ」のトップで松本さんがこのように書いている。
■20世紀と21世紀では、知的な状況は大きく変わっている。旧来の大学内の知は、社会に切り結ばなくなっている。オルテナティブを想定しない批判的な言説は、いさぎよさとともに、空虚さももってしまった。公共性の高い議論のはずなのに、細かい方細かい方、狭い方狭い方へとどんどん押し詰まっていった。知性が、大学ではなく、仕事の場所、生活の場所で切実に求められているにもかかわらず、つなげられていない。つなげようと言う試みもまだ少ない。
■書評は、編集の中の編集である。編集された本をさらに集めて、見せていくから。ナレッジに対するレビューがこれほど切実に求められている時代はないのに、昔ながらの知性に偏りすぎている。新しい知性を創ることが求められているのに、汲み上げ、支える勢力はまだ弱い。ゆえに、レビューは重要だ。さらに、デジタル社会の課題、情報の流通と複製のコストを限りなくゼロにしたこと。このことは、労働価値説に基づく社会批判の思考も、商品の希少性に基づく利益を求める資本主義も、根本からくつがえしつつある。レビューこそが、財の価値を決める時代になりつつある。
書評の栄光の時代としてよく言われるのは、かつて「日本読書新聞」のあった時代[*1]、ということだ。けれども、当時はまだ冷戦時代、イデオロギーの言葉が説得力のあった時代で、書評という言葉も、そうした構造のなかで位置付けられていたのだろう。 [*1: 「日本読書新聞」を「図書新聞」と「読書人」の前身、と書いたけれど、図書新聞は読書新聞の競合紙だったので訂正します。]
冷戦崩壊後に堰を切ったように溢れ出した言葉は、そのようなイデオロギーの言葉ではなく、そうした構造では位置付けられなかったサブカルチャーの領域から発せられた言葉だった。それは、ようするに上の文章で松本さんが言っている、「レビュー=評判」の言葉であり、評判が文化の価値を決める時代、ということの現れだったのだと思う。もちろん、すべての学問や知がサブカルチャーしたわけではない。けれども、トップダウンで発せられる言葉に対抗できるくらいには、ボトムアップのレビューも力を持ち始めた時代、それがたぶん1980年代以降という時代で、90年代半ば以降のインターネットの爆発的な普及も、そうした下地があってはじめて可能だったのだと思う。
「図書新聞」はそうした時代にあって、「それでもトップダウンの言葉は必要だ」という認識で作られていると思う。「硬派の書評紙」というのはそういう意味だと思う。硬派であることは大事なことだが、硬派であるためのスタイルの革新は必要だろう。いつまでも「下駄に角帽」ではないだろうし、いまさら「ヘルメットに角棒」というわけにもいかない。じゃあ、なにが新しい知性のスタイルなのか。それはまだわからないけれど、書評新聞とインターネットが出あうことでなにができるのかを、しばらくためして見たいと思う。
最近、あちらこちらで日記的なページをはじめてしまったので、しばらくこの「編集長日記」は、「図書新聞」における「書評特区」についての作業日誌ということにしたい。これまでやってきたような、書物とネットをめぐるメディア論的な考察は、新しくはじめたMovabletypeのブログのほうで続けるので、こちらもよろしくお願いします。
6月6日(金)
「書評パンチ」の始まりから今にいたるまでのことを、今月出る『季刊・本とコンピュータ』に長めのエッセイ「読書の網の目番外編:オンライン書評の現在」として書いた。校了してから気づいたのだけど、一箇所大きな間違いをしてしまったので、ここで訂正する。ひつじ書房の松本功さんと「書評パンチ」の創刊を「2000年正月」と書いたが、一年前の「1999年正月」が正しい。自分の雑誌で自分のサイトのことを自分で書いて間違っているのだから釈明の余地はないのだけど、この「編集長日記」をはじめたのが2000年からだったので、すっかり勘違いしてしまった。いずれ、訂正をした上で、全文をこのサイトにもアップするつもりです。
1999年正月からということになると、なんだかんだでもう4年半、書評や本の情報の流通について考えていることになる。『季刊・本とコンピュータ』のエッセイで書いたのは、最初は同人制ではじめた「オンライン雑誌」形式を途中から「個人誌」にした理由、それと同時並行で進んでいった検索エンジンの性能向上、さらには最近のウェブログ的なメディアの登場、そして最後は日経のサイトにも書いた「分散ジャーナリズムの可能性」へと話がつながっていく。個人がそれぞれの立場から継続的にものを考えていくという行為と、それらが横にゆるやかに横断し連携しつつ、人々の関心領域をつないでいくことが、たとえばウェブログと検索エンジン、はてなに代表される「アンテナ」サイトとの組み合わせで、ずいぶんスムーズにできるようになった。ネットで他人の書いたテキストを読むという行為が、こんなにふくらみをもって感じられるようになったのは、なんだかんだいって最近のことだ。
それに比べると、紙メディアを編集したり、紙に刷られたテキストを読むという行為からは、ずいぶん自由度が減っている。永久に保存されることを原理的には想定している書物のようなメディアは、まだ紙に刷られるべき十分な理由があるが、保存のためではなく、広く流通するために「紙」に刷られているはずの雑誌や新聞は、編集や読みの自由を失ったら、ただちに紙クズに変わる。「本とコンピュータ」の次号では、ホットワイアードの江坂健さん、オルトアール総合雑談中心の船田巧さん、フリーペーパーの「カエルブンゲイ」のアライユキコさんと、ぼくの四人でやった座談会を中心に「デジタル共有地」という雑誌内雑誌特集の二回目をやった。こちらもぜひ読んでほしい。
インターネットでの「読み書き」が獲得しつつある、個々が自立しながら、横にゆるやかにつながりあってもいる、という状況は、かつては紙メディアが担っていたはずだ。紙メディアがもつ、紙ならでは柔軟性を回復したい、という気持ちもあって、週刊書評紙「図書新聞」の紙面を借りて、月に一度程度、松本功さんと一緒に、少し変わった書評をやらせてもらうことになった(「書評ホームページ」のトップに松本さんが書いている文章も参照)。「図書新聞」という長い伝統をもつ老舗の「紙メディア」をつかって、何ができるか、いろいろ考えているところだ。こちらも乞うご期待。
5月4日(日)
以前、「書評パンチ」のメンバーでバベル計画というものを構想したことがあるが、いろんな難しさがあって頓挫したまま、ずっと放り出したままにしてある。これは、インターネット上に一種のバーチャルな「集合住宅」をつくり、居住者はそれぞれの部屋で勝手に日記や書評を書いてウェブに公開したり、非公開で自分だけのメモにしたりできるようにしたい、というものだった。このアイデアのもとになったひとつは、95年頃にサンフランシスコにあった「サイボーガニック」というウェブサイト。ここは実際の家にも住人が共同生活をしていて、オンラインだけでなくオフラインでもコミュニティがあった。もう一つは高橋留美子のマンガ「めぞん一刻」。あの一刻館の感じが、ウェブで実現できないか、と思っていたのだった。
「はてな」をつかい始めて思ったのは、これはかつて僕らが構想した「バベル計画」にとても近いな、ということだ。キーワードでゆるやかにリンクしあう仕組みや、「おとなり日記」「おとなりアンテナ」という「ご近所感」の出し方も、どこかアパートやマンションのもつ共同性に似ている。自前でサーバをもつのが「土地付き持ち家」、プロバイダーにハードディスクのスペースを借りてウェブサイトをつくるのが「土地なしの持ち家」だとして、「はてな」の感じはアパートやマンションを借りて住む感じに似てる。距離感の取り方が、ちょっと都会的な感じがする。マンションの隣の家から、自分が好きなのと同じ音楽が聞えてくるときの、嬉しいような恥ずかしいような感じ。アパートの薄い壁の向こうから、隣の家の人の声が聞えてくる感じ。そういうのが嫌いな人もいるだろうけれど、僕はけっこう好きだ。
最近、自分の個人サイトを更新すると、「おとなり」の人がまっさきに見に来てくれる。ぼくも、自分にとっての「おとなり」感のあるサイトが更新されると、なんとなく様子を見に行きたくなる。この「ご近所感」の先に、公共性とかコミュニティ意識とかが、ゆっくりと育っていけばいいと思う。
4月26日(日)
自分の個人サイトでも別のオンライン日記やbbsを始めてしまったため、こちらの更新がずいぶん滞ってしまいました。自分のところで使い始めたのははてなダイアリー。アクセスログを取り始めてから、「書評パンチ」にしても個人サイトにしても、「はてな」のアンテナ経由がずいぶん多いことに気が付いて、ずいぶん前から興味はもっていたのだけど、C-NETに載った「日本人にはBlogより日記」の記事をみて、へえ、きちんと考えてるなと思い、試してみることにした。
しばらく使ってみて分かったのは、これは日記と言うより、最近流行のブログと同じで、一種の「オンライン編集システム」のひとつとして考えればいいのだ。「関心空間」とか「Blogger」とか「YukiWikii」とか「tDiary」とか、ぼく自身も興味があって試してみたこともあるいろんなシステムを組み合わせてチューニングしてあるのだけれど、そのバランスがちょうどいい。
あと、ISBNを打ち込むと、アマゾンにリンクする機能が最初から付いているのも(特定のオンライン書店のデータベースと連動していることの是非を度外視すれば)、こちらにも読者にも便利だ。この日記も「はてな」化してもいいのだけど、いくつかの方式を使い分けてみたいので、このページはこれまでどおり、DreamWeaverで続けてみる。いまのところ、更新の遅さは入力方式のせいではなくて、自分にとっての「語り口」の部分の問題だと思う。本コのサイトでも本当は日記をもっと書かなくちゃいけないのだけれど、「日記」というのは基本的にはプライベートなものなので、サイトがパブリックなものになればなるほど、書きにくくなって更新が滞る。もしその問題がクリアできれば、ここも「はてな」でやってもいいかな、と思っている。
あと、ここは独自の「投げ銭」システムをもっている。コミュニティ内で通用するポイント制というところは、ちょっと地域通過に似ている。このポイントがアマゾンでの購買に充てられるようにでもなれば、けっこう可能性があるような気がする。
3月9日(日)
キーワード分析をまた更新。最近は『帝国』が増えてきたけど、『〈民主〉と〈愛国〉』も多い。こういう、読んだ人間がものを考えさせられる本について、他の人間がどんなふうに考えているのかをネット上でさがしてみたくなる気持ちはよくわかる。広い意味で「書評」というのはそういうものを含むべきだ。本はいまでも十分に人をむすびつけることができる道具だし、インターネット上でいろいろ書くことは、本のもつそうした機能を高めることはあっても、減らすことはないだろう。実際、このサイトへの検索キーワードを全部公開してから、アクセス数が明らかに増えている。
本に書かれた文章のまわりにある余白をインターネット上に広げたものが、ネット上の書評なのではないかと思う。そのことについては、以前「テキストブックから、ノートブックへ」というコラムとして、「書評パンチ」を始めた頃に書いたことがある。その一部を引用する。
余白をたっぷりとった、随時ランダムに書き込み可能な、本とノートのアイノコのような電子本をぼくは夢想する。写経のように、いまある本をうつしとるだけの電子本には、あまり興味はない。なぜかというと、プレーンテキストには余白(マージン)がないからだ。オーサリングでがちがちにされたマルチメディア作品も同じだ。
これまでだって、印刷された黒い部分ではなくて、余白の部分こそが、本の本体、つまりBOOKだったんだ。その余白を、電子ネットワークにつなげること。黒いテキストの部分ではなくて、白いマージンを、電子ネットワークの上で広げること。このコラムを書いたときは、去年亡くなったイヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ」という概念を頭にうかべていたけれど、たとえばアントニオ・ネグリの言っている「構成的権力」というのも、近い考えだと思う。ネグリが言っているのは、ようするに、すでにできてしまった「institution(制度)」ではなく、「constitution(自ら構成されていくもの)」のほうが重要だ、ということで、「conviviality」を因数分解するとネグリの「constition」と「biopower」という概念になるんだと思う。ローレンス・レッシグの「commons」とか「end to end」という概念は、別の方から同じことを言おうとしているのだと思う。
#明日から書店に並ぶ「季刊・本とコンピュータ」のなかでも、この問題を考えるために「デジタル共有地」という32ページの企画をやったので、よかったら読んでください。
3月2日(日)
ネグリの『〈帝国〉』とレッシグの『コモンズ』をつなげて読むというアイデアは、かなりうまくいきそうだ。おかげで、『帝国』という本のもつ意味が、ようやく自分なりにわかってきた。それはそれとして、BBSのほうでも紹介したけれど、じつは『〈帝国〉』の原書の英文テキストは、すでにプロジェクト・グーテンベルクのサイトにアップされていて、パブリックドメインに置かれている。このテキストを参照できることで、この本への印象もずいぶん変わった。
テキストアーカイブが、版権切れの古典だけを集めている段階は、そろそろ終わるのではないかと思い始めている。つまり、いま生きているテキストが、ネットでも参照できることが、いかに大きな意味をもつかは、だんだん明らかになっていくだろう。たとえば僕の場合、自分のネグリへの知識、理解にはあまり自身がない。これまでなら、とにかく邦訳された本を読むことで、訳者の理解を通じて練り上げられた日本語を通して、原著の意味を考えるという作業をするしかなかった。でも、原著のテキストがネットにあると、まず自分で邦訳と原著の照らし合わせができる。さらには、まだ読んでいない人間とも、原著のテクストの引用や私訳をネットで共有することで、ある程度の議論ができる。だいたい人がものを考えるのは夜中で、夜中に突然本屋に買いに行くことはできないことが多いから、ネットでテクストが参照できると言うことは、とても大きな意味がある、と思う。
ぼくが自分のBBSでいまやっているのは、一種のバーチャルな「読書会」みたいなものかもしれない(いまのところ参加3名。ただし、2名はまだ『〈帝国〉』を読んでない。集団的な読書ということを考える。人はつねに、バラバラに本を読んでいるようで、そうではないのだ。それを通じ合わせる回路が、インターネット上にはいろいろある。そういうことを、ちょっと考えてみたいと思っている。
それから、上の「検索キーワード一覧」の形式を変えました。今回の更新から、グラフにしないで、上位から単純にすべてを羅列してあります。また、表記の揺れやズレもそのままにして、別のキーワードとして載せました。ログ解析のキーワード集計一月単位になってしまったので、いま表示しているのは1月末から昨日までの分です。
2月22日(土)
ひきつづきネグリの『〈帝国〉』を読む。前回、ちょっと否定的に書きすぎたので、いいところをさがしながら読んでいる。この本について考えたことは個人サイトのBBSのほうでしつこくやるつもりだけれど、ひとつだけここでも書いておく。ネグリの〈帝国〉という概念と、レッシグの「コントロールされたアーキキテクチャ」という概念、前者の「構成(constitution)」と後者の「code」、「マルチチュード」と「エンド・トゥ・エンド」を、それぞれ比較してみることは重要じゃないか。そのうえで、レッシグが強調する「コモンズ」という概念を、ネグリの「カウンター・エンパイア」というビジョンとあわせて考えてみること。さらには両者の発想のもとにある「米国憲法」についての考え方をていねいに比較すること。これを、だれかにやってほしいと思う。米国憲法は、国境を越え、国民国家を超えた「帝国」を生み出す理論的支柱であり、同時にレッシグが「コモンズ」救出のためにもちいる武器でもある。ハートとレッシグが対談すればいいことだけど、そういう企画はアメリカで成立するのかなぁ。
2月20日(木)
村上春樹『海辺のカフカ』の書評をアップした。ついでに検索キーワード上位一覧を一月半ぶりに更新。ただし、安原顕さん関連による検索を入れると一桁違ってしまうので、ヤスケンさんがらみのものはすべて割愛。どのくらい多かったかは、上のリンク先をご覧ください。あいかわらず小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』が多い。内田隆三の『国土論』もちらほら。
すぐれた厚い人文書を読むのは、フィクションを読む以上にスリリングな経験だと思う。その流れで期待して買ったアントニオ・ネグリとマイクル・ハートの『帝国』(以文社)は、読むのにひどく難儀している。とにかく読みづらい。思想書全般にいえることだけれど、翻訳で読むより英語なりなんなりで読んだ方がずっとわかりやすいことが多い。『帝国』の場合、原書の文章を見ていないので、かれらの書いていることそのものがわかりにくいのか、訳のせいなのかは分からないけれど、とにかく全然前に進まない。
そういう時はすでに出た書評を読むのがいいのだけれど、日本で出ている書評にはろくなものがない(たんなるアジテーションか、紹介のようなものばかり。とくに東京新聞の長原豊のはひどかった)。ようするに、プロパガンダばかりで、純粋に知的な興奮を与えてくれるものが少ないのだ。ということは、この本もたぶん、そういう内容の本なのだろう。
Googleでみつけた英文の書評(John Clark, What makes Negri and Hardt’s ‘Empire’ a poor book?)では、案の定、酷評されている(ぼくがパラパラとめくって見た印象も、この人の書いていることに近い)。タイトルのもとになっている箇所を引用する。
「Why is this a poor book? Because the uninformed reader risks impoverishment in their hands. 'Empire' is an opportunist text, an underinformed attempt at academic branding, their title a logo, an empty symbol. It seems unfortunate that a book which is being marketed very heavily has so little to contribute towards a new departure in political debate.」
(私訳:なぜこの本は可哀想なのか。あまり予備知識のない読者が、著者たちの手のうちで疲弊困憊させられるだけという危険があるからだ。「帝国」は日和見主義的なテクストであり、アカデミックな箔づけをあてにしたunderinformedな試みだ。この本のタイトルはロゴマークのような空虚なシンボルにすぎない。これほどまでにさかんにマーケティングされた書物が、新しい議論にむけてこれほどまでに資するところが少ないのは、とても不幸なことに思われる)
……とまあ、けちょんけちょんである。日本ではネグリとハートは左翼オタクみたいな人ばかりが褒めているので、私にとってはこれまで非常に心証が悪い書き手なのだが、この書評通りの本だとすると許しがたい。もっとも、きちんと読まないうちから悪口を書いてもしかたないので、ちびちび読みつづけるつもり。(インターネットにかんする記述がとくに気になるので、そこを中心的に読んでみよう)。でも、訳書は文章にほんとうに魅力がないなあ。そもそも共著というのはどういうことなのか。執筆における役割分担が明確でない共著なんて、気持ち悪くて読めないと思うのだが。
ともかくまず通読し、考えをかためてみよう。そして、この本を褒めまくっている人たちが、なぜそういう行動を取るのかも、少し考えてみたい。
[補記] 最初のアップから少し加筆した。このあとすぐにアマゾン・コムで原書も購入してみた。ついでにネット上で冒頭の数ページを英語で読んでみた。比べてみると、訳文は原文に忠実だが、もたもたしていて、原著のスピード感が出ていない。思い切ってハッタリをきかせるくらいでないと、文章は硬いが内容はぶっ飛んでる、原著の味わいが出ないだろう。上記の書評でも批判されているあたかも「ロゴ」のようなタイトルなど、原著はポップな装丁なのに、邦訳は重厚長大な「人文書」として売っている。それがそもそもの間違いのもとだ。原著の雰囲気は一昔前の日本の「ニューアカ」的な本のたたずまいに似ている。左翼学者が大衆向けにややおもねって、サブカルチャー的な意匠をまとった本を出す…という傾向が、ヨーロッパではまだ続いているのだろうか。
アメリカがイラク攻撃を逡巡する仏独を「古くさいヨーロッパ」と呼んだのは記憶に新しいが、よくもわるくも、この本も「古くさいヨーロッパ」の思想家の本だと思う。それがなぜ、ファッショナブルな装いで出るのか。むしろこの『帝国』という本については、内容の吟味よりも、それこそ(たぶんAmazon.comなどを通して)「グローバル」に売れている受容や評価のされかたのほうを分析したほうが面白そうだ。あと、アマゾンで見るとハートはTranslatorとなっているけど、まさかネグリのしゃべりをハートが口述筆記でまとめたり、他国語に翻訳したりする、なんていう執筆スタイルなんだろうか。とにかく、その辺は「現代思想」の〈帝国〉特集でも読んで勉強してみることにする。
もうひとつだけ。「帝国」という言葉に訳書では〈 〉をつけているが、原著はEmpireでイタリックにもなっておらず、裸の概念として提示されている(比喩ではなく、概念だ、と著者も強調している)。それになぜ〈 〉がついているのかが解せない。訳者の判断は誤りだと思う。小熊英二が『〈民主〉と〈愛国〉』や『〈日本人〉の境界』でつけた〈〉の持つ意味と、この訳書で〈帝国〉と表記されるときの〈〉がもつ意味はまったくことなる。同じ言葉(概念)を使っていても、それが意味することが各人でまったくことなる可能性に、小熊英二はとても敏感だ。しかし、ネグリの〈帝国〉は議論の「前提」だから、問い直すことがあらかじめ禁じられている。つまり、『〈帝国〉』における〈 〉は、それがドグマティックな用語であるということを意味している。しかし、帝国は西欧に特殊な現象ではない。古代オリエントにも中国にもあった普遍的な現象だ。ネグリの思想は典型的なオクシデンタリズムだと思う。
[補記2] 現代韓国の批評というサイトの「帝国」特集 (その2もあり)は、情報量があってとても参考になる。韓国からみた世界の姿は、たぶん日本から見るより、イタリアのネグリが見ているものに近いのだろう。日本はすでに、あまりに帝国化されているのかもしれず、だからネグリの言うことが「なにをいまさら、当たり前のことを」と思えるのかも知れない。そのあたりを意識しながら、もう少し読みすすめてみるつもり。
[補記3] 「現代思想」の〈帝国〉特集を読んでみた。長原豊のハートへのインタビューは、しつこく疑問を正していて、わりかしよかった。なのになぜ、国内向け(というより、一般向け、要するにマルチチュード向け?)の言説は、絶賛調になるのか。『帝国』についての語りは、二つに分裂している。ネグリ的な幻想を共有しないものに対しては「必読の書だ」とプロパガンダ的に語り、同じ問題を共有するサークルのなかでは、納得できない多くの点があると語るわけだ。
もちろん、この本を「刺激的」に受け止める読者もいるだろう。でもそれはどんな人だろう。その人は、自分が受けた「刺激」の質をよく考えるべきだ(それはすべての思想書、哲学書にいえることだけれど)。ネグリの言っていることは、状況判断としては同意できる。でも、逆に言えば、状況の後追いでしかないし、その解釈体系もとても凡庸だ。つまり、少しでも世界の変容に対し意識的な人間なら、普通に暮らしていて実感していることだ。しかもそれは、ひどく西欧中心的なものであり、日本人である僕らにとっての実践性に欠ける。
「帝国主義」にかわるグローバルな主権としての「帝国」というのは、体のいい(その「体の良さ」が、さまざまな層でウケている理由だろう)キャッチフレーズだ。そもそもアメリカや旧ソビエトは国民国家ではなかったし、いまでもそうではない。また、「帝国」と国家を切り分けることはできるだろうが、国家がその最大の寄生先であることも疑いを得ない。エンパイアというのは、すでにある「状況」に貼り付けるラベルとしてはいいが、それだけである。おそらく、現在の主権者であるグローバル資本主義にとって、「帝国」という書物は歓迎すべき言説商品だろう。もし「マルチチュードによる革命」が成就しなければ、いつまでも「帝国」の繁栄は正当化されるのだから。
この本の最後に、来るべき「革命の主体」としてのマルチチュード(ようするにわれわれ一般大衆のこと)が獲得すべき権利として言挙げされている、「世界市民性の保証、基本所得の保障、生産手段の再領有」というのも、インテリ無産者であり、獄中に閉じこめられたネグリの夢見る権利と解釈できなくはない。この程度の権利が保障されることで、「帝国」の主権を「マルチチュード」が奪回できるとは思えないが、ネグリにとっては切実な願いだろう。でもまあ、この提案じたいは悪くないし、検討に値する。だけど、そこに行き着くまでが退屈で長いのだ。もしこの本が「二十一世紀の共産党宣言」なのだとしたら、最初からこの提案からはじめて欲しかったし、もっともっと薄い本であってほしかった(マニフェストであるならなおさら)。
というわけで、だいたい予備知識が揃ったので、本格的にこれから読み始める。どうやら、最後の章から遡って読んだ方が、この本はよさそうだ。
#「帝国」の話は長くなってきたので、つづきはぼくの個人サイトのBBSの方でやります。
1月21日(火)
安原顕さんが亡くなられた。つい昨日、改装なった神保町の東京堂書店で、『ファイナル・カウントダウン ヤスケンの編集長日記』を落手したばかりだった。氏の歯に衣着せぬ言動に対してはいろいろと毀誉褒貶があるだろうが、これほどまでに「本」が好きで、読者としての自分の意見を曲げずに言葉にした人は、本当に少ないんじゃないだろうか。
もし「本」が今後も人がものを考えることの基本をなすメディアでありつづけたいなら、まずもって、「本」をめぐる言葉が嘘まみれになっている現状をなんとかしなくてはならない。たぐいまれなる書物好きだったヤスケンさんが、罵倒という遠回しな愛情表現によって伝えたかったメッセージは、つまるところ、それだけだと思う。追従や打算、自己保身、業界的気配りといった、本の内容や価値とはまったく別のところで発される世に溢れる膨大な「ニセ書評」に憤り続けた氏への最大の餞は、だれもが素直に自分が読んだ本の感想を言葉にすることだろう。
1月5日(日)
新年あけましておめでとうございます。「書評PUNCH!」の創刊から早くもまる3年、今年で4年目に突入です。今年もだらだら続けたこの欄(いろんなご縁で)見に来てくださった方に感謝します。ひとつご報告を。このところ、このページに「安原顕」の検索ワードでくる方があまりに多いのと、アクセスログ解析サービスをしていたCGIBOYがINFOSEEKに統合されたため、上で公開している時期のキーワード上位一覧との整合性がうまくとれなくなってしまいました。なので、しばらくキーワード検索結果の更新を止めています。今月末くらいでいちだんらくしたら、またあらたな結果を公開する予定です。一応ご報告をすると、ここひと月は全体の2割ほどが「安原顕」による訪問。まちがえていらした方も、こうやって出会うのもなにかの縁だと思います。ぜひ、今後もときどき読みにきてください。
ところで、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』による検索も、あいかわらず多い。最近、書店でこの本と並んで置かれてることもある(同じ判型なので)内田隆三の『国土論』(筑摩書房)を読んだ。70年代以降の郊外化と金融経済の国際化による日本の「国土」=トポスの喪失が、文学をはじめとする日本語の表現にどのような影響を与えているかを論じた大著で、こちらも面白かった。郊外化と金融経済についての分析が精緻で、ぼくが付け焼き刃で「ポスト・ムラカミの日本文学」で書いた部分をずいぶん裏書きしてくれている気がした。ぜひ、併せて読んでいただきたい。この人は『探偵小説の社会学』という本の著者でもあるのだが、この本は買ったまま読まずにいた。あらためて読んでみたいと思った。
もっとも、「国土論」というタイトルには多少の違和を感じないでもない。なぜ「国土」なのか。「国語」でも「国民」でもなく「国土」である理由、「故郷の喪失」という問題意識がピンとこないのは、東京生まれで東京郊外育ちの、物心ついたときにはすでに郊外化が進んでいた世代のぼくと、喪失される前の「故郷」のイメージを明確にもっている「団塊の世代」以前との違いかもしれない。でも、この本のタイトルは「反国土論」とすることだってできたと思う。同じく郊外化と現代社会の問題を家族の崩壊とからめて論じる越智道雄が、その著書を『幻想の郊外〜反都市論』としたように。
言葉による表現(文学)が国土という現実的な足場を失ったときなにが起こるか、よりも、失ったことで、かつてそうした足場があったことがくっきり見えてきたということを書こうとした本、ということなのだろう。惜しむらくは、読んでいるあいだは面白いのだけれど、はてしなき同語反復というか、結局は、どこにも思考が導かれていかない本という印象が残る。小熊英二の本と同様、これも一種の「憂国の書」だろうが、淡々とした小熊の本のほうが、アクチュアルで熱い書物という気がする。読んでいる間の快楽と、読後の虚脱感という意味で、内田のこの大著もまた一種の「探偵小説」なのかもしれない。もう少し、この二つの本のことは考えてみたい。
……という感じで今年ものんびり書きます。たまには感想など、こちらまでメールをいただけるとウレシイです。本年もよろしくお願いします。
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