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パブリックとプライベートの間になにがある
『中央公論』4月号の大塚英志論文をめぐって
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このところ、編集同人の間でまわしているメーリングリストでは、『中央公論』4月号にのった大塚英志の「インターネットの中の<私>〜移行対象領域論3」という論文にかんする議論がさかんだ。内輪の議論ではあるのだけれど、少し大事な観点がみえてきたので、経過報告をかねて、コラムとして、紹介してみたいと思う。
この論文で大塚英志は、津野海太郎、粉川哲夫、立花隆といった、<この領域で積極的に発言してきた人々の楽天的な物言い>から、失礼かもしれないがと断りながらも、<ひどく醜悪な印象をうける>と書いている。<醜悪>という言葉づかいはともかくとして、津野・粉川両氏は、ぼくが仕事上で親しく関わっている人でもあり、彼らへの生産的な意味での<批判>であれば、ぼくもいろいろ考えていることがあるので、とりあえず一読した後、編集同人に、
「中央公論の最新号で、大塚英二(誤字ママ)がかなりつっこんだ議論として、文字メディアとしてのインターネット論を展開しています。津野さんや粉川さんへの痛烈な批判もでていて、なかなか読ませます。」 と書いて送ったところ、松本さんほかから、
「読んだけれど、大塚英志のはまるで批判になっていない。仲俣はあの論文のどこが面白いと思ったのか、おしえてほしい」 と、反応が返ってきた。そのあとも同人間でメール議論のやりとりをしているうち、少し問題のありかがわかってきた。大塚英志は、醜悪と書いた根拠を、
「ぼくが「醜悪」と感じるのは、この新しいメディアを彼らが強引に、自分がこれまで帰属してきた価値体系の枠組みの延命策として読み替えようとしている、言い方を換えるならば電子メディアによって彼らは彼ら自身が肯定されることを欲し、自らの批評でそれを自己演出しているような印象があるからだ。」 と書く。
ぼくはこのなかの、<自己演出>というのは、けっこううまい言い方だな、と思ったのだ。たしかに、津野海太郎や粉川哲夫は、多分に自己演出をしているからだ。でも、大塚英志とぼくとでは、そのあとの評価がまったく違う。
この点については、だいぶ前だが、スタジオボイスという雑誌のために書いた、粉川哲夫の『もしインターネットが世界を変えるとしたら』(晶文社)の書評があるので、少しながくなるけど、全文引用する。
「インターネットが世界を変える」といったたぐいの予言書めいた本と、解説マニュアルばかりが飽きもせず毎月のように出版されるなか、7年ぶりの粉川哲夫のメディア論集はなんとも挑発的なタイトルをまとって刊行された。
もちろん、インターネットのウェブ上ですでに活発な批評/アート/アクティヴィスト活動を行っている著者が、この新しいメディアに大きな可能性を見ていることは疑うまでもない。ぼくの理解では、粉川哲夫がインターネットにみている可能性は、【場所・身体】と【言語】という二つのメディアをラディカルに相対化・異化するものとしてある。それはインターネットがそれ単体で何かをしてくれる、というようなネグロポンテ流の楽観的なデジタル福音主義とは全く異なる。
インターネット自体が、先行するメディアへのラディカルな「批評」である以上、インターネットに関する言説はそれへの「再批評」でなければ意味がない。状況を追認・解説するだけの言説は、インターネットをたんなる近代(その完成形としての高度資本主義)の延長線上に位置づけてよしとする知的怠慢か、商売人のセールストークでしかない。
本書で粉川が強調していのは「パブリック」という概念だ。パブリック・ドメインという考え方をラディカルにおし広げていくことによって、インターネットが生み出した一時的な自律ゾーン(T.A.Z.)を、よりしたたかでパブリックな領域(ドメイン)として維持すること。そのために粉川は、インターネットをなにより【場所・身体】というメディアへの批評としてうけとめ、それへの再批評を試みているのだと思う。
このことは、同じ晶文社から刊行された『本とコンピューター』で津野海太郎が、デジタルテクノロジーを【本=活字】への「批評」としてうけとめ、それへの再批評を行っていることと比べるととても対照的だ。本書のあとがきで、著者(※粉川のこと)はこの時代に書物によって自らの思想を定着させることへの違和感を率直に語っている。むしろ粉川は【言語=イデオロギー】によって形作られた近代という空間を、【デジタル・テクノロジー】と【場所・身体】によって挟撃することによって見えてくる何かについて語ろうとしている。
【場所・身体】への批評としてのインターネットを再批評しようとする粉川の関心が、なにより今ヴァーチャル・リアリティ、とくにVRMLというプログラム言語にむかっているのも、そう考えればごく当然だ。ここでは再び【言語】が、【場所・身体】というメディアを再批評するものとして現れているのだから。
「もしインターネットが世界を変えるとしたら…」という問いかけを受けて言葉を続けようとして、ぼくらは口ごもってしまう。インターネットが世界を変えるのではないのだ。「世界を変える」の前に来るべき本当の主語を、ぼくらはそこに置かなければならない。大塚論文のテーマは、題にもあるとおり「インターネットの中の<私>」だ。私、というのは、「個」といいかえてもいいし、近代自我みたいなものを考えてもいい。
パンチの合評でとりあげたシェリー・タークルの『接続された心』でも、<自我>みたいなものが、ネット空間で溶けだしたり、変容したりする事例がいくつも紹介されている。でも、津野海太郎や粉川哲夫の議論は、少なくとも大塚の言うような「彼らは彼ら自身が肯定されることを欲し」ているからではなく、むしろ<私>ではなく<公共性>というものを、どのように演出できるかを考えているのだと思う。
だから、その前のくだりで大塚英志が書いている、「自分がこれまで帰属してきた価値体系の枠組みの延命策として読み替えようとしている」という指摘は、ある意味で、正しいのだ。ただし、意識的にやっているから、津野海太郎や粉川哲夫は強い。大塚英志の論文は、後半でこう続く。
「インターネットは(映像メディアであるというよりはむしろ)文字のメディアである」。しかし、「うまくは言えないが新しいメディアの中で生き延びるのは、やはりその場にふさわしい類の「ことば」や「知」や、それらの「主体」ではないか、と思うのだ。楽天的インターネット論者たちにぼくが違和を覚えるのはまさにこの点で、自らの依拠する「知」や「ことば」そしてそれらによって形作られる「私」といった旧メディアによって、本当にそっくり、何の軋轢もなく置き換えられるものなのだろうか、ということだ」
大塚英志は決定的に、ここでは弱気だ。だって、津野氏らは、インターネットという新しいメディアを、“自らの依拠する「知」や「ことば」そしてそれらによって形作られる「私」”に対する脅威(というより、ラジカルな批評)だと思ったからこそ、自己演出という必死の身振りをとおしてそれと格闘し、そのなかで、“自らの依拠する「知」や「ことば」”を守ろうとしているのだ。
一方の大塚英志は、ただ“うまくは言えないが新しいメディアの中で生き延びるのは、やはりその場にふさわしい類の「ことば」や「知」や、それらの「主体」ではないか、と思うのだ”と訳知り顔でいうだけで、なにも行動しない。
もし、自分のアイデンティティ、たとえば「オタク的」とよばれるものが命がけで守る必要のあるものだと信じるなら、自己演出だろうが、なんだろうがやるだけのことをして、守ればいいのだ。でも、結局のところ、“その場にふさわしい類の「ことば」や「知」や、それらの「主体」”などという手垢のついた言葉で大塚が養護しようとしているのは、ただの<私=大塚英志個人>だけなのだ。
だから、さらに後で大塚はこう書く。
「インターネット上で表出される<私>とはむきだしの内面のことである……。ぼくがインターネットが生理的にしんどいのはこの点で、いわば商品として加工されていないむきだしの内面が錯綜する光景は古い「文字表現」に慣れた者には耐えられない。そのことは正直に記しておく。」
正直なのはいいが、正直なだけで、<失礼かもしれないが>と断りながら他人を<醜悪な印象をうける>と書いたり、<うまくは言えないが><しんどい><思う>といった、「商品として加工されていないむきだしの内面」をここで吐露しているのは、大塚英志本人だろう。しかし、言うまでもないが、あまりにもこれまで堅苦しい<公>の言葉ばかりが紙の世界を支配してきたからこそ、インターネットの世界に私的な言葉は流出したのだ。手紙や日記のような私的な文章、批評と言うよりは感想文のような本や音楽の話、赤裸々なセックスの話……。こういう言葉で綴られた世界を、もう僕らは以前によく知っていた。そう、その昔、少女マンガやSFの世界に、こうした言葉たちは流出してきたんだ。そして、そこからだって、すぐれた作品はいくつも出てきたんじゃなかっただろうか。そんなことは、サブカルチャーの現場にいた大塚英志自身がいちばんよく分かっているはずなのだ。なのに、大塚はそれを否定的にしか語らない。でも、それはジャンル全体の問題なのか。<もうサブカルチャーにはいられない>、でも、<既成の権威にはなりたくない>という、大人になりたくないのに年老いてしまった子供、という大塚個人の哀れなのではないか。醜悪というなら、このことだろう。
ぼくは、私憤を公憤に、ということをよく考える。個人的な体験を、そこにとどめずに公共性のある言葉に変えていくことが、紙だろうがインターネットだろうが、人に言葉を伝えたい人たちの意識すべきことじゃないかと思うのだ。たんに公共的であろう、パブリックであろうとするだけでは不十分で、たぶん、私的なものをくぐり抜けたあとに出てくる公共意識でないと、どんな言葉も面白くならない。そして、ぼくが津野海太郎の文章に少し物足りなさを覚えるとしたら、あまりに自己演出が公共なものに向かいすぎているように思えることで、そこに、私的なものがあまり透けて見えないからだ。大塚英志も、もしかしたら、彼らの言葉から自分のよく馴染んでいる<内面の吐露>といったものが、まったく透けて見えてこないことに、いらだったのかもしれない。
いまはまだ、私的であることと公共的であることとの比率が、インターネットの世界では、圧倒的に前者に傾いている。けれどもぼくは、インターネット上の私的な言葉が、公共的な言葉に育っていくことがないとは思わない。すでに何人もの優れたインターネット上の書き手を知っているし、インターネット上で交わされれている議論や批評、あるいは創作には、いまの紙の雑誌や新聞より劣っているどころか、何歩も先を進んでいるものがある。たんに、その存在をまだ知られていないだけだ。
出版という仕事は、まさに、こういう知られざる言葉を広く知らせていくことだし、いいかえれば、個人の私的な言葉を公共的なものに換えていく仕事だ。ぼくは、大塚が言うのとは逆に、インターネットが<商品として加工されていないむきだしの内面が錯綜する>場だからこそ、そこから公共性のある言葉が生まれうるのだと思っている。