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テキストブックから、ノートブックへ
〜イリイチ的インターネット論のためのメモ![]()
本とはなにか、なんていうことは、いままでにほとんど意識して考えたことなんてなかった。本は、空気や水のように、とまではいかないまでも、ごく自然に身の回りにあったから、その本質を改めて問い直すまでもなかったのだ。
でも、いまや水や空気もただではなくなった。人が環境を意識し始めるのは、いつでも身の回りに危機がせまってからだ。本の場合もそうだろう。本とはなにか、ということについてのぼくの大雑把な考えを「ウナギイヌ」説として前にここで書いた。そのあとも、つらつら考えていたのだけれど、このあいだ松岡裕典さんが書いてくれた『接続された心』の書評を読んでいて、はたと気づいたことがある。
他人の書いたメモを読む、ということは、下手をすると書評を読むよりずっとおもしろい。もしかしたら、本を読むより、メモを書きためたノートを読む方がおもしろいかもしれないし、さらにいえば、ノートを読んだ人のノートを読む方が、ずっとおもしろいのかもしれない。そこで、インターネットと電子テキストのことを考えたのだ。というのも、インターネットの普及と、いわゆる活字本が迎えつつある危機とは、表裏一体のできごとだと思うからだ。
本を英語で言うとBOOKだ。でも、BOOKという言葉は、日本で言う「本」とか「書籍」とは、すこし違った語感がある。どこか、軽い気がする。それはなぜだろうと考えてみて、ああ、BOOKにはNOTEBOOKも含まれているからだ、ということがわかった。おそらく、BOOKというのは、あくまで形態から見た「綴じたもの」のことであって、「書物」という物象化された観念とは別個のものなのだ。
その証拠に、英語でBookingと動詞形でいえば、帳面に記帳することを意味する。だとすれば、BOOKというのは書き込み可能なもの、書き込まれるもののことであって、むしろタブラ・ラサ、つまり白紙であることがその本質であるはずなのだ。
そう考えると、逆に、これまでの書物幻想が、本の本来性からいかに逸脱した倒錯であるかということがわかる。そして、「NOTEBOOK」的な意味での本を、「TEXTBOOK」 が抑圧する時代がはじまったのが、ほかならぬグーテンベルク革命かもしれないのだ。
いうまでもなく、グーテンベルクが活版印刷という新しいテクノロジーによってつくった本は、まさしく「TEXTBOOK」、すなわち聖書だった。話は変わるけれども、このところずっと、イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』(東京創元社)をぱらぱらと読み返していた。この本を最初に読んだ10代の終わり頃、イリイチのこの本は、ベンヤミンの『暴力批判論』(晶文社)とならんで、いろんなことを示唆してくれる本だった。でも、彼の言っていることを、当時のぼくはあまり正確には理解していなかったと思う。校内暴力の時代だったから、たんなる学校否定の論理としてだけ、『脱学校の社会』を読んだのだった。
でもいまは、もう少し深い意味で、イリイチの言っていることがわかる。そのわけは、日本の状況が、イリイチがこの本を書いた70年代のアメリカに追いついてきたからでもあるし、インターネットというものが登場したからでもある。実際、インターネットを開発したエンジニアたちの中には、イリイチの影響を強く受けた人たちがいたようだ。
『脱学校の社会』(deschooling society)は、もう少し正確に訳すると、社会を脱学校化させる、という題だ。deschoolingというのは、たんに学校を壊すとか、学校に行かないということではなくて、フランス革命以来、ぼくらが当たり前と思っている、学校や病院、ひいては国民国家といった、制度的思考から自由になるということだ。そのことを、本の世界にあてはめると、TEXTBOOKからNOTEBOOKへ、ということになる。教科書の発想をやめて、帳面の発想をとることだ。イリイチがこの本で言っているのは、人が学校で学ぶのは、結局のところ、消費者としてモノや情報を無批判に受け入れる態度だけである、ということだ。学校こそが、消費社会を生んでいる元凶だ、という示唆が、いま読みかえしてみると、もっとも新鮮だった。この本が書かれた当時のアメリカは、ベトナム戦争の真っ最中、しかも、大衆消費社会が、日本に先駆けて、大規模に進行中だった。コカコーラを飲みながら、ベトコンを殺す、という、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフへの疑問が、あらゆる局面で吹き出してきた時代だ。イリイチは、学校化ということを、ベトナム戦争についてもいう。ベトナム人に「民主主義を教える」ための戦争、つまり、学校化するための戦争だったといっているのだ。もちろん、戦争が終われば、コカコーラを売り込むつもりだったのだろう。
イリイチは、真の理解をはぐくむものは、学校という制度やカリキュラムではなく、相互共生的な(convivial=ともに生き生きする)道具、たとえば電話網や郵便網、いまでいうBBSのようなコンピュータ通信網といったウェブ状の仕組みを通した、生き生きした他者との交わりだといっている。ここですでにウェブという概念が、1971年に書かれた本の中でイリイチによっていわれているのだ。プログラムからプロトコルへ、つまり、計画から手続きへ、というインターネットを準備した思想がすでにここにある。インターネットや電子テキストの問題を論じるとき、誰もがマクルーハン経由でグーテンベルクを引き合いに出すことに、ぼくはずっと違和感があった。正直言って、マクルーハンのホット/クールという二分法も、「メディアはメッセージ」というメッセージも、地球村という概念もあまりピンとこない。いまとなっては、対抗文化の時代、あるいはテレビ時代という60年代の現状を、理論的に追認していただけとも思える。いまのテレビのどこがクールだろうか。学校化の、つまり消費資本主義の、先兵ではないか。それに、そもそもメディア論というもの自体、どこか退屈だ。
でも、イリイチの「相互共生的な道具としてのウェブ」というアイデアは、いまでも十分使える考え方だと思う。そこには、技術をメディアとしてでなく、道具として使おうという姿勢がある。メディア論の退屈を越える、実践的な知がある。電子メディアが意識を拡張する、なんていう、マクルーハンの託宣に頼るのではなくて、いま、もっとイリイチ的な実践的な時代認識が必要なんじゃないだろうか。
イリイチ的というのは、いまおきていることを、グーテンベルク以来の革命と言わずに、むしろはっきりと、フランス革命以来の革命だ、ととらえることだと思う。日本で言えば、明治以来のわずか100数年を、ひっくり返すものだと思えばいい。それだけでも、いまおきている本の危機、あるいは電子メディアによるさまざまなできごとを、メディア論のなかでの狭い内輪の議論から解き放って、もっと広い視点からとらえなおすことができるんじゃないか。
そういえば、宮台真司も「学校化」のことをしつこく言っている。彼は、おそらく、日本でいまもっともイリイチ的に行動している人だと思う。言うまでもなく、いじめの問題も、学級崩壊の問題も、本が売れない問題も、インターネット上のアナーキーの問題も、ぜんぶつながっているのだ。イリイチを読むと、そのことがよくわかる。学校の先生たちは、宮台真司を読んでビクビクするくらいなら、イリイチを読むべきなのだ。話をもとにもどそう。
もし、回覧ノートのような本、というものが可能なら、イリイチの言う相互共生的な道具になるだろう。BBSや、WWWは、すでに、それを一部実現している。アラン・ケイがイリイチやマクルーハンと同じ時代に、DYNABOOKというのを考えたとき、それはコンピュータというより、本を越える本、だったはずだ。ボイジャーのエキスパンドブックはどうだったか。少し、ノートの機能が弱かったのではないか。
余白をたっぷりとった、随時ランダムに書き込み可能な、本とノートのアイノコのような電子本をぼくは夢想する。写経のように、いまある本をうつしとるだけの電子本には、あまり興味はない。なぜかというと、プレーンテキストには余白(マージン)がないからだ。オーサリングでがちがちにされたマルチメディア作品も同じだ。
これまでだって、印刷された黒い部分ではなくて、余白の部分こそが、本の本体、つまりBOOKだったんだ。その余白を、電子ネットワークにつなげること。黒いテキストの部分ではなくて、白いマージンを、電子ネットワークの上で広げること。
ようやくすこしだけ、イリイチと話が、つながってきた。ところで、イリイチという人はカトリックの神父だ。経歴をみると、ニューヨークで助任司祭をつとめた後、プエルトリコでカトリック大学の副学長まで務めている。そして、マクルーハンもカトリックへ改宗した人だった。インターネットとかウェブという概念と、カトリック的な考え方とのあいだには、なにか親和性があるのかもしれない。プロテスタント的な布教は、どこか学校的だ。カトリックやギリシア正教はどうだったのだろう。キリスト教に詳しい人は、そのへんを教えてほしい。この辺に、きっと大事ななにかがあると思うのだが。