
■市の立つ場所―平和と自治
市では、殺傷はもちろん、喧嘩口論、押売押買、さらに債権による取立ても固く禁じられていた。(『増補 無縁・公界・楽』 網野善彦 1996 平凡社ライブリー) ※市という場所が、所有の論理だけではなく、「無主」の論理によっても支えられていたということ。市では、戦争と戦いや、押し買い(領主などが、勝手な値段や条件で強引に買ってしまうこと)を許さない論理が働いていたということ
■リスク
リスクを自分で負担するコンテンツを読むこと、投げ銭することによって生じるリスクは、本人が負う。お金を払うということには、自己に責任がある。大道でものを買うということは、ちいさなものであってもリスクを負うということである。
■目利きになるべし
また、誰かにものの価値を決めてもらって、何を買うかを決めてもらうような考えとは異なったやり方ということになる。ブランド品を買うというのとはちがう。自分でブランドをつくるような買い方。自分が、その未熟であってその人を育てるというきもち。若手の落語家がデビューした時に目をかけるような。
■市が立つためには
作物がある■リアルな世界でも個人向けの少額決済の方法は弱い
日本では、なぜ小切手口座を個人が持てないのか?(日本では個人は銀行まで出かけていってお金を払うのに)お金を払うときに、日本では個人が、クレジットでの通信販売の加盟ができないのか?(日本人が、海外のオンラインショップで物を買うことはできるのに)どうも、かなり一方的に、個人や小さな組織が冷遇され、負担を強いられているように感じてしまう。SOHOやNPOが経済の大きな部分を構成しそうな中で、弱気ものに冷たいこのような経済制度自体の問題。しかも、そのことを今まで多くのジャーナリズムは、ほとんどふれていないということ。
■SOHOの意見も入れてほしい
インターネット決済協議会のメンバーは、大企業ばかりで、消費者団体、SOHOやNPO、小さな企業、地域の代表、フリーライターなどは一人もいない。買う環境のことばかり言われて売ることは言われていないのでは。なぜ、大きなシステムを使って商売をし、お金をやりとりする人々ばかりが、全国民に影響を与える決済のシステムを決定する議論に参加できるのだろうか。小さな組織は、参加する権利がないのだろうか。根本的な間違いがあるような気がする。
■<菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金>
(鈴木月良という江戸時代の言語学者が)ちょっと変人だったらしく、家の玄関には<菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金>と書いたという。 (『やちまた』上 足立巻一 1995 朝日文芸文庫) ※大学制度のようなもののなかった江戸時代は、学者の生活も、生徒による個別の心付け(=投げ銭)によってなりたっていた。当時の日本語研究は、文学作品の読み方、和歌の作り方のような創作支援の要素もあった。
■小さなエゴからの出発
自分にとっての良い店が、残ってほしいというエゴが、小さなショップをなりたたせ、育てる。専門家のきちんといる店が、身近にあった方がいいという個人のちょっとした長期的なエゴが、そだてる力になるのではないだろうか。
■市民によるパトロネージュ
現在、消費主義社会とというもののほころびが見えてきている、見えはじめたという段階だろう。消費主義の社会は、消費者が大きな力を発揮するはずではあるが、現実的には、マーケティング戦略がそれなりに機能していて、ブランドを創出し、購買欲を宣伝などによってあおり、頻繁なモデルチェンジによって、買い換えを促進することで、新製品の開発費を捻出するという構造になっている。あふれるばかりの商品を、消費者がかならずしも主体的に購買しているとはいえない状況であるように思う。また、広告費によって成り立つテレビなどの媒体によって、直接的には購買者はふところを気にしないで、エンターテインメントを手に入れることができる。
■情報の値段
情報に値段はつけられるのだろうか。作り手が一方的に値段を設定できることは、いいことなのか。情報の価値は受け手によって全く変わってしまう。マスセールス・大量消費を前提にした統一価格というものは、デジタルコンテンツの場合、適合したものなのだろうか?
■対価というより拍手
投げ銭は対価とはいいがたい。それは、拍手のバリエーションと考え方がいいのではないだろうか。100円のコインは、芸が、100円の交換する価値があったということではなくて、声をかける、拍手するのと同じように、気持ちを送るということである。生業を立てるという意味からすると、オンラインのテキストだけで生きていけていいはずである。充実した内容のものであれば、それは生活の成り立つ十分な生活価値をもっていい。その芸人が、生きて行けていいはずだと感じるのならば、時には、コインの枠を超えて驚くようなタイマイをはたいてもいい。
■公的なインフラとすること
「投げ銭宣言」でも触れているが、オーストラリアのチケットサービスは、第3セクターが運営しており、格段に安価な手数料で、サービスをし、チケットを発行しているとのことである。これは、個別の劇団に資金的に援助するのではなく、よい芝居をし、観客がよく入ったときに、実入りを多くすることで、劇団と劇作家を支えるという仕組みということである。芸術を支援しようとした場合、このようなチケットサービスというインフラは、重要であるということである。これと同じように小さな組織こそが、人々の生活を支えていると考え、その運営を盛んにすることが、インターネットをも含めた地域の存在をよくしていくという判断が、なりたつのであるならば、小さな組織のための決済システムを公的なインフラと考えることもできるはずである。また、小さな規模の経済が、活発になること、民間の力が活性化されるのではないだろうか。